第4回 青函トンネル開通と津軽海峡線|船から鉄道へ変わった連絡輸送
青函トンネルの完成と1988年の津軽海峡線開業によって、本州と北海道の連絡輸送が船から鉄道へ大きく転換した流れを紹介します。青函連絡船時代の接続ダイヤ、船舶輸送の課題、そして快速「海峡」など新しい連絡列車の登場を整理します。
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その後、莫大な資金と多大な犠牲を払いながらも建設が進められ、1971年には本工に着手、1985年に本坑が貫通してトンネル本体が完成、さらに鉄道施設の設置工事が進められ、1987年に建築限界測定車であるオヤ31形を含んだ試験列車が運転され、この年の11月に青函トンネル全体の完成にこぎつけました。そして、1988年に満を持して津軽海峡線として開業、供用が開始され事故から38年の月日を経て、船を使わずして津軽海峡を越える方法が完成したのでした。
この津軽海峡線の開業と青函トンネルの開通は、国鉄→JRの列車運行の体系にも大きな変革をもたらしました。従来は上野ー青森間と函館ー道内各地を列車で結ぶのが基本で、青函連絡船はこの両者の接続を担うため、すべてが連続するようにダイヤが組まれていました。
例えば1975年3月のダイヤを見ると、青函連絡船下り3便は青森を5時25分発、函館に9時15分着で運航していました。これに接続するのは青森に5時03分に到着する寝台特急「ゆうづる1号」と、同じく5時10分に到着する「ゆうづる2号」でした。そして函館では9時35分に発車する釧路・旭川行きの特急「おおぞら2号」、少し間を置いて札幌行き急行「すずらん1号」が運転されていました。いずれも始発駅をベースにしたダイヤ編成で、文字通り昼夜を問わず運航することで、本州ー北海道間の輸送を支え続けていました。

東北新幹線が開業するまで、上野駅は「特急銀座」と呼ばれるほど、頻繁に特急列車が発着していた。特急だけでなく、これを補完する目的で急行列車も数多く発着し、非常に賑わっていたという。これらの列車の中で、青森駅発着の列車は青函連絡船を介して本州と北海道を連絡する役割を担っていたため、ダイヤも「連絡線が接続する」設定になっていた。寝台特急「ゆうづる」もその一つで、青森到着後は青函連絡船下り3便に接続し、函館では下り3便到着後に道内に向かう特急列車が接続していた。(©スペースエアロ2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
しかし、船舶による連絡輸送は洞爺丸のような海難事故のリスクをはらむだけでなく、天候によっては欠航や遅延が起きやすく安定した輸送を提供することは困難でした。また、船舶の維持管理はもちろんのこと、これを運航するのは国鉄職員でありながら海技士免許をもつ船舶運航乗務員という特殊な立場にあり、その養成から労務管理に至るまで、一般の職員とは大きく異なるため大きな負担になっていました。加えて、青森駅や函館駅にある車両積載用の桟橋も特異な構造をもつため、維持管理のコストも大きいものがあったのです。
このように、船舶による連絡輸送は運航、そして乗務員、施設の面で鉄道とは大きく異なる体系を組まなければならず、運用をはじめとしてコストの負担は大きいものだったのです。
青函トンネルの開通は、こうした不安定な輸送体系から鉄道による直接輸送へと切り替えることを可能にし、安全かつ安定的な輸送を可能にしました。
1988年の青函トンネルを含む津軽海峡線の開業によって、本州と北海道の間を直接往来する列車が数多く設定されました。

青函トンネルが完成し、ここを通る津軽海峡線が開通すると、本州−北海道間の交通事情は大きく変化した。それまで青函連絡船を介していたのが、列車で直接往来が可能になったからだ。青函トンネルには特急や急行といった優等列車だけでなく、地域輸送を担う快速列車も設定されていた。快速「海峡」は、当時余剰となっていた50系客車を改造してこれに充てて運転されていた。(©アツァセボ, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
青森ー函館間のローカル輸送を担う快速「海峡」は、50系50形5000番台や51形5000番台、14系500番台座席車を使った客車列車で、特に開業時の青函トンネルブームで押し寄せる人々を輸送しました。津軽海峡線で運転された普通(快速)列車はこの「海峡」だけで、あとはすべて急行や特急といった優等列車でした。
《次回へつづく》
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