旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

2025-01-01から1年間の記事一覧

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【14】

EF71形は奥羽本線の交流電化とともに登場し、「あけぼの」や「つばさ」の補機・本務機として活躍。JR東日本に継承後も重連運用で峠越えを支えましたが、改軌工事や列車削減により運用を失い、1993年に形式消滅。豪雪地帯・板谷峠を越えた交流電機として、25…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【13】

EF71形は1968年に福島機関区に配置され、当初はED78形の補機として運用されましたが、1970年以降は本務機としても活躍。寝台特急「あけぼの」や気動車特急「つばさ」の補機も担当し、特にキハ181系の冷却・変速機トラブルにより再び補機として連結され、板谷…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【12】

EF71形は板谷峠対応の補機として1968年に登場した国鉄交流電機最大のF級機です。回生ブレーキや過速度検知装置、電機子短絡スイッチなどを装備し、耐寒耐雪仕様も充実。主電動機6基で2,700kWの高出力を誇りましたが、自重増加や空転、サイリスタ不良などの課…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【11】

EF71形は、板谷峠対応の補機として1968年に登場した国鉄交流電機最大のF級機です。サイリスタ位相制御と回生ブレーキを搭載し、主電動機を6基装備することで2,700kWの高出力を実現。屋根上機器の室内収容や豪雪地帯対応の設計も特徴で、交流版EF63形ともいえ…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【10】

ED78形は1968年から製造され、板谷峠や仙山線で活躍した国鉄交流電機です。寝台特急「あけぼの」対応の増備やJR継承後の仙台転属を経て、1990年代には定期運用を縮小。1998年にほぼ全車が廃車となり、残る2両も2000年に落ち葉清掃列車の任務を終えて引退。30…

回想録 ディーゼル機を使った貨物駅での入換作業【3】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info (2)入換の「真打ち」ディーゼル機の出番 到着した貨物列車から電気機関車が切り離され、引き上げ線へと引き上げていくと、今度は入換用に待機していたディーゼル機の出番です。当時の横浜羽沢駅には、…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【9】

ED78形は、ED94形の試験成果を基に1968年に量産化された板谷峠対応の交流電機です。サイリスタ制御や回生ブレーキ、過速度検知装置、電機子短絡スイッチなどを装備し、安全性と制動力を強化。奥羽本線や仙山線で運用され、1970年には2次車も増備されましたが…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【8】

ED94形は、板谷峠の急勾配に対応するため、ED77形をベースに回生ブレーキを搭載した国鉄初の試作交流電機です。サイリスタ連続位相制御により、交流から直流への変換と電圧制御を両立し、回生制動を可能にしました。試験の結果、誘導障害が発生したため、量…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【7】

奥羽本線の交流電化に伴い、EF64形に代わる本務機としてED78形が登場しました。ED75形を基に開発されたED93形(後のED77形)は、軸重調整機能やサイリスタ位相制御を搭載し、仙山線で試験運用されましたが、板谷峠の急勾配に必要な抑速機能がなく、峠越えに…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【6】

EF64形は板谷峠の急勾配と寒冷地に対応する新性能直流電機として登場しましたが、奥羽本線の交流電化方針により、福島機関区での運用はわずか3年で終了。豪雪地帯向けの装備や発電ブレーキを備えたEF64形は、電化方式の転換により稲沢へ転属し、奥羽本線の直…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【5】

EF64形は、1964年に板谷峠などの勾配線区対応のため開発された新性能直流電機です。EF60形を基に設計され、MT52形主電動機と発電ブレーキを搭載。回生ブレーキに代わり、大容量抵抗器と強力なブロワーにより安定した制動力を確保しました。これにより、勾配…

回想録 ディーゼル機を使った貨物駅での入換作業【2】

《前回からのつづき》 1:横浜羽沢駅の場合 筆者が勤務していた電気区(後に保全区)があった横浜羽沢駅は、比較的多くの列車が停車する途中駅でした。途中駅といえども到着や発送する貨物の量はそれなりにあったので、当時は昼夜を問わず駅構内をトラックや…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【4】

奥羽本線・板谷峠の急勾配区間では、EF15形・EF16形が補機として活躍しましたが、構造上の制約や電装品の消耗が課題となっていました。従来の国鉄電機は台車枠に牽引力を伝える設計で、旅客用と貨物用で性能が分かれ、車両全長や検修効率にも問題がありまし…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【3】

EF16形は、峠を越えるために生まれた電機です。急勾配の板谷峠では、回生ブレーキを駆使し、地上設備と連携して安全な降坂を実現しました。特急「つばさ」が気動車化された後も、峠越えにはこの旧型電機が必要とされ、異なる動力方式で協調運転を果たしまし…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【2】

《前回からのつづき》 ■直流電化とともに登場した改造補機EF16形 1949年に直流電化されたことで、板谷峠を越える列車は電機が牽くようになりました。この電化によって奥羽本線で運用する機関車が配置されている庭坂機関区にやってきたのが、当時、量産が続け…

峠に挑んだ電機たち 第2章 奥羽山脈越えの隘路、33.0パーミルの板谷峠【1】

第2章 東北最大の難所 33.0パーミルの板谷峠 板谷峠は福島県と山形県の県境に立ちはだかる奥羽山脈の峠で、江戸時代は米沢藩が参勤交代のために越えなければならかった隘路です。標高755mの峠はそれほど高いと感じることはないかもしれませんが、当時から、…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【9】

カートレイン釧路やカートレインさっぽろは、北海道内や青森―札幌間で運行されたが、利用者の多くがレンタカー利用者や近郊住民に限られ、利便性や積載制限の問題もあり短期間で運行終了。1985年に始まったカートレインは、鉄道と自家用車を組み合わせた新し…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【8】

カートレイン北海道は、青函トンネル開通を機に誕生したが、発車時刻の早さや長時間乗車、車両サイズの制約などが利用者の負担となり、1997年に運行終了。これにより本州発着のカートレインはすべて廃止された。しかし、広大な営業区域を持つJR北海道は、道…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【7】

1988年、青函トンネル開通を機に「カートレイン北海道」が運行開始。恵比寿駅から白石駅まで、自家用車と乗客を同時に運ぶ新しい旅のスタイルだった。24系寝台車とワキ10000形貨車を使用したが、18時間以上の長旅に食堂車や車内販売がなく、発車時刻も昼過ぎ…

【鉄道員時代の回想録】資材担当者という仕事(1)

いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 鉄道員の仕事というと、一言では説明できないほど数多くの役割があります。このブログでもお話してきたように、大きく分けて列車の運行に直接携わる運転系統や、乗客扱いを担当する営業系統、車…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【6】

カートレイン九州の成功に沸いた国鉄は、1986年に「カートレイン名古屋」を投入。熱田駅から東小倉駅まで、自家用車とともに旅する新たな夜行列車だった。乗客車両にはユーロライナー、車載には改造されたマニ44形を使用。だが、車両制約や収益配分の不均衡…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【5】

1990年代に入り自動車の大型化が進むと、カートレインに積載できる車種が限られ、利用者が減少。長時間乗車にもかかわらず車内販売がなく、乗客サービス面での課題も浮上した。さらに、運行に関わるJR各社間の収益配分の不均衡や、JR九州の負担増が問題とな…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【4】

カートレインの乗客車両にはA寝台のナロネ21形が使われ、快適性は高かったが料金も高額だったため、国鉄は急行列車として設定し、運賃を抑えた。人気は高く、指定券は徹夜で並ばないと入手困難だった。発着駅の変更や途中下車の導入、車両の14系化など改良が…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【3】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info カートレインは、汐留駅を発車すると、途中の停車駅は設定されず、終着の東小倉駅まで走り続けます。上り列車も同じ設定で、途中で停車するのは機関士が交代するための運転停車のみに限られました。また、…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【2】

1985年、国鉄は乗客の自家用車を鉄道で目的地まで運ぶ「カートレイン」を導入。欧米では既に実例があったが、日本では初の試みだった。汐留―東小倉間で運行され、貨物駅を活用することで新たな設備投資を抑えた。車両選定では鉄粉による自動車の汚損を避ける…

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【1】

昭和の終わり、鉄路は揺れていた。 飛行機が空を制し、高速バスが台頭し、国鉄は信頼と乗客を失っていく。 だが、技術者たちは立ち止まらなかった。 編成短縮、急行格上げ、ジョイフルトレイン、そして“カートレイン”―― それは、鉄道の未来を信じた者たちが…

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 私鉄車両に迫ったアルミ車体とチョッパ制御車・203系【13】

203系は国鉄の苦境の中で生まれ、民営化の波を越えてJR東日本に継承された“置き土産”だった。電機子チョッパ制御とアルミ車体という新機軸を導入し、営団の要請に応えた技術者たちの誇り。2011年、最後のマト55編成が退き、29年の歴史に幕を下ろす。交換部品…

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 私鉄車両に迫ったアルミ車体とチョッパ制御車・203系【12】

1982年、203系は国鉄初のチョッパ制御×アルミ車体として誕生。混雑路線の複々線化に合わせて登場し、営団の要請に応えた“走る答え”だった。財政難の中、軽装車100番台で置き換えを完遂。民営化の波を越え、JRと東京メトロの時代も走り続けたが、2009年、E233…

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 私鉄車両に迫ったアルミ車体とチョッパ制御車・203系【11】

高価な203系を少しでも軽く、安く――国鉄は“軽装車”100番台を生み出した。初のボルスタレス台車DT50系を採用し、屋根厚や連結器も見直して軽量化。保安装置はATCとATS-Sを両立し、地下鉄と地上線を自在に走破。民営化の波に飲まれながらも、203系は“官から民…

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 私鉄車両に迫ったアルミ車体とチョッパ制御車・203系【10】

203系は、快適性と省エネ性能を両立した通勤形電車として誕生。暖色系の内装、冷房装置AU75G形、そして乗客に優しい座席配置――すべては“新しい国鉄”を印象づけるためだった。しかし、財政難の国鉄にとって高価なチョッパ制御とアルミ車体は重荷となり、1985…