1988年、青函トンネル開通を機に「カートレイン北海道」が運行開始。恵比寿駅から白石駅まで、自家用車と乗客を同時に運ぶ新しい旅のスタイルだった。24系寝台車とワキ10000形貨車を使用したが、18時間以上の長旅に食堂車や車内販売がなく、発車時刻も昼過ぎ…
いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 鉄道員の仕事というと、一言では説明できないほど数多くの役割があります。このブログでもお話してきたように、大きく分けて列車の運行に直接携わる運転系統や、乗客扱いを担当する営業系統、車…
カートレイン九州の成功に沸いた国鉄は、1986年に「カートレイン名古屋」を投入。熱田駅から東小倉駅まで、自家用車とともに旅する新たな夜行列車だった。乗客車両にはユーロライナー、車載には改造されたマニ44形を使用。だが、車両制約や収益配分の不均衡…
1990年代に入り自動車の大型化が進むと、カートレインに積載できる車種が限られ、利用者が減少。長時間乗車にもかかわらず車内販売がなく、乗客サービス面での課題も浮上した。さらに、運行に関わるJR各社間の収益配分の不均衡や、JR九州の負担増が問題とな…
カートレインの乗客車両にはA寝台のナロネ21形が使われ、快適性は高かったが料金も高額だったため、国鉄は急行列車として設定し、運賃を抑えた。人気は高く、指定券は徹夜で並ばないと入手困難だった。発着駅の変更や途中下車の導入、車両の14系化など改良が…
《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info カートレインは、汐留駅を発車すると、途中の停車駅は設定されず、終着の東小倉駅まで走り続けます。上り列車も同じ設定で、途中で停車するのは機関士が交代するための運転停車のみに限られました。また、…
1985年、国鉄は乗客の自家用車を鉄道で目的地まで運ぶ「カートレイン」を導入。欧米では既に実例があったが、日本では初の試みだった。汐留―東小倉間で運行され、貨物駅を活用することで新たな設備投資を抑えた。車両選定では鉄粉による自動車の汚損を避ける…
昭和の終わり、鉄路は揺れていた。 飛行機が空を制し、高速バスが台頭し、国鉄は信頼と乗客を失っていく。 だが、技術者たちは立ち止まらなかった。 編成短縮、急行格上げ、ジョイフルトレイン、そして“カートレイン”―― それは、鉄道の未来を信じた者たちが…
203系は国鉄の苦境の中で生まれ、民営化の波を越えてJR東日本に継承された“置き土産”だった。電機子チョッパ制御とアルミ車体という新機軸を導入し、営団の要請に応えた技術者たちの誇り。2011年、最後のマト55編成が退き、29年の歴史に幕を下ろす。交換部品…
1982年、203系は国鉄初のチョッパ制御×アルミ車体として誕生。混雑路線の複々線化に合わせて登場し、営団の要請に応えた“走る答え”だった。財政難の中、軽装車100番台で置き換えを完遂。民営化の波を越え、JRと東京メトロの時代も走り続けたが、2009年、E233…
高価な203系を少しでも軽く、安く――国鉄は“軽装車”100番台を生み出した。初のボルスタレス台車DT50系を採用し、屋根厚や連結器も見直して軽量化。保安装置はATCとATS-Sを両立し、地下鉄と地上線を自在に走破。民営化の波に飲まれながらも、203系は“官から民…
203系は、快適性と省エネ性能を両立した通勤形電車として誕生。暖色系の内装、冷房装置AU75G形、そして乗客に優しい座席配置――すべては“新しい国鉄”を印象づけるためだった。しかし、財政難の国鉄にとって高価なチョッパ制御とアルミ車体は重荷となり、1985…
203系はアルミ車体を採用しながらも、国鉄の“窓のトラウマ”を越えられなかった。過去の腐食事故から一段下降式窓を避け、ユニットサッシを採用。前面デザインは営団6000系と小田急9000形を折衷し、国鉄車両の画一的な印象を打破。それは、地下鉄にふさわしい…
地下鉄の過酷な環境に挑むため、国鉄は203系にアルミニウム合金製車体を採用。従来の普通鋼では重すぎて加速性能や省エネ効果が損なわれるため、軽量化は不可欠だった。高価で試験的だった301系の経験を経て、複数メーカーが製造可能なアルミ車体を選択。そ…
地下鉄の過酷な環境に挑むため、国鉄は203系を開発。高回転・高出力のMT60形主電動機とCH1A形チョッパ制御装置を搭載し、加速性能を重視した歯車比で地下鉄仕様に最適化。回生ブレーキの強化、軽量台車の工夫、そしてアルミ車体による軽量化――203系は、技術…
通勤地獄を切り裂くため、国鉄は高価な201系を量産し、電機子チョッパ制御の実用化に成功した。地下鉄の排熱問題に悩む営団の要請に応え、国鉄は203系を開発。軽量アルミ車体と大容量制御器CH1A形を搭載し、地下鉄に適した“走る答え”を送り出した。技術者た…
営団は地下鉄の排熱問題を解決するため、チョッパ制御車6000系を導入しました。国鉄も試験を重ねて201系で実用化に成功し、混雑路線の輸送力向上と旧性能車の置き換えを進めました。営団の要請に応え、1982年には203系が登場しました。
営団の申し入れを受けた国鉄は、101系や103系に電機子チョッパ制御を仮設し、各地で試験を重ねました。回生ブレーキの課題に直面しながらも、1974年の根岸線試験で高速域でも効果を発揮する方式を確立し、ついにチョッパ制御の実用化に成功しました。
常磐線の混雑緩和策として千代田線が建設され、小田急・国鉄との相互直通運転が始まりました。営団は省電力なチョッパ制御車両を導入しましたが、国鉄の103系1000番台は電力消費が多く、排熱問題も抱えていたため、営団は改良車両の導入を求めました。
戦後の首都圏では通勤混雑が深刻化し、国鉄は「通勤五方面作戦」で抜本的な輸送力強化に挑んだ。吊り掛け駆動の旧型車両から新性能電車への転換、複々線化や地下新線の建設により、中央・総武・常磐線などで快速と各停を分離。千代田線の開業も含め、通勤地…
高度経済成長期、首都圏の鉄道は通勤地獄と呼ばれる混雑に直面しました。吊り掛け駆動車では限界があり、国鉄は101系の投入と通勤五方面作戦を実施しました。快速と各停の分離、複々線化、新線建設により、鉄道は都市の膨張に応えるべく大改革を進めました。
《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■車齢など関係ない 荷物輸送の廃止とともに運命を絶たれた気動車たち 1984年2月のダイヤ改正、いわゆる「ゴー・キュウ・ニ改正」は、日本の物流に大きな影響を与えたダイヤ改正だったといえるでしょう。こ…
キニ58形は常磐線で単独運用された荷物気動車で、新聞輸送などを担いましたが、1984年以降の郵便・荷物輸送縮小により役目を失いました。1986年のダイヤ改正で制度自体が廃止され、改造からわずか数年で廃車となる悲運の車両となりました。
キニ28形・キユニ28形は国鉄が最後に製作した郵便・荷物気動車で、新聞輸送などに活躍しました。急行「土佐」や「紀州」などに併結されましたが、宅配便の台頭や急行列車の削減により運用機会が減少し、短期間で役目を終えることになりました。
キニ28形・キユニ28形は、老朽化した荷物気動車の代替として1977年に登場しました。キロ28形を種車に新製車体を載せ、高運転台や広い乗務員室を採用するなど、安全性と作業効率を向上させました。郵便室や荷物室の構造にも工夫が施されました。
キニ58形は、老朽化したキニ55形の代替として1978年に登場した2エンジン搭載の荷物気動車です。キロ58形を種車に改造され、常磐線のような勾配や電化方式の異なる区間でも安定した運用が可能でした。構造はキニ28形と共通で、非冷房仕様でした。
1977年、老朽化した郵便・荷物気動車を置き換えるため、キニ28形・キユニ28形が登場しました。急行形グリーン車キロ28形を種車に改造し、新製車体を採用することで効率的な荷物積卸や乗務員環境の改善を図りました。構造や設備にも工夫が施されました。
宅配便が普及する以前は、郵便小包や鉄道小荷物が主な輸送手段でした。郵便は梱包が煩雑で重量制限があり、鉄道は駅への持ち込みと受け取りが必要でした。国鉄は郵便・荷物合造車や専用車両で全国輸送を担い、老朽化に伴いキニ28形などの改造車が登場しまし…
毒性の高い液化アンモニウムを運ぶタキ18600形は、白く塗られた大型タンク車でした。その色は、法令が定めた“警告”であり、鉄道が担った責任の象徴でもありました。国鉄からJR貨物に継承され、機関車の次位に連結されるなど安全に配慮された運用が続きました…
毒性の高い液化塩素を運ぶタキ5450形は、黄色に塗られた異色の貨車でした。黒が支配する国鉄貨物の中で、その鮮烈な塗色は危険物輸送の緊張感を象徴していました。中和装置を備え、理科の知識が命を守る装備も搭載。696両もの車両が日本の工業を支え、やがて…