旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

客車

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【10】終章

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■首都圏対北海道の寝台特急に新たな風を吹き込んだE26系 カハフE26 国鉄時代から分割民営化後、長きに渡って青色の塗装を身にまとった客車が長距離夜行特急列車、いわゆる寝台特急として運用されてきまし…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【9】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■電化区間でパンタグラフからの給電を再び スハ25 300番代 24系に限らず、客車の電源車は電化区間においては電化方式に、そして非電化区間に左右されることなく客車に電源を供給する役割を担っていました…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【8】

《前回からのつづき》 ■余剰車の荷物車から転身した異色の電源車 マニ24 500番代 1987年の国鉄分割民営化から魔もない翌年の1988年、四半世紀強の長い時間と難工事の末に青函トンネルが開通し、この年から開業した津軽海峡線によって本州と北海道は鉄道で結…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【7】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■増備車は荷物室をさらに拡大 カニ24 100番代 24系25形は二段式寝台を備えたことから、居住性が従来の寝台車と比べて格段に改善されたことが好評だったようで、分割併合を伴う多層建て列車を除いて、三段…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【6】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■24系登場と同時に製作されたマヤ24、0,5トンの荷物室を追加したカヤ24 1873年に24系の製造がはじまると同時に、電源車として登場したのがマヤ24でした。マヤ24には直列6気筒・排気量31リットル・インター…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【5】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■急行格下げで郵便荷物車との併結を可能にしたカヤ21 14系や24系といった新しい系列の客車が登場すると、20系は陳腐化が目立つようになりました。14系や24系はB寝台でも寝台幅700mmに広げられ、従来のB寝…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【4】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■分割編成に使われた旧型客車改造の簡易電源車 マヤ20 登場当時は国鉄の「虎の子」ともいえた20系は、徐々にその数を増やしていき、東京−九州間の寝台特急をはじめ、関西−九州間の寝台特急などにも使われ…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【3】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info ■パンタグラフを装備した電源車 カニ22 国鉄客車の電源車と言えば、ディーゼルエンジン+発電機を組み合わせた発電セットを搭載した車両というのが定番でした。しかし、ディーゼルエンジンを稼働させるた…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【2】

《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info 1958年に登場した20系客車は、それまでの国鉄客車の常識を大きく覆すものでした。 もっとも大きな違いは、従来は客車1両単位で運用することを前提とした設計思想であったのに対し、20系は編成単位で運用す…

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【1】

いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 「電源車」という車両をご存じの方は、おそらく筆者と同世代に近い方や諸先輩方、そして熱心に研究されておられる方かと思います。筆者がこの「電源車」という言葉を初めて耳にしたのでは、鉄道…

期待された救世主のはずが 短命に終わった悲運の客車【5】

《前回のつづきから》 blog.railroad-traveler.info 1987年に国鉄が分割民営化され、旅客会社6社と貨物会社1社、さらに付帯する事業を営む2社と財団法人1法人に事業が継承されますが、50系は製造からの経年が浅すぎたため、そう簡単に余剰廃車とすることはで…

期待された救世主のはずが 短命に終わった悲運の客車【4】

《前回のつづきから》 blog.railroad-traveler.info 50系は1978年に登場すると、さっそくローカル線で旧型客車で運転されていた列車に充てられていきました。次第にその勢力を全国へと伸ばしていき、東北から九州まで進出していきます。また極寒地仕様で設計…

期待された救世主のはずが 短命に終わった悲運の客車【3】

《前回のつづきから》 blog.railroad-traveler.info 旧型客車の緩急車は、基本的に車掌が乗務する車掌室は車両の一方に設けられていました。つまり、車掌室は1つしかなく、オハフ33ではデッキを車端部に配置していたため、車掌室はデッキの内側、すなわち客…

期待された救世主のはずが 短命に終わった悲運の客車【2】

《前回のつづきから》 blog.railroad-traveler.info 豪華な設備を誇る特急用客車として20系が増備され、夜行特急列車は順次これに置き換えられていく一方、急行列車や普通列車は相変わらずスハ43系を中心とした車両によって運転されていました。国鉄が開発し…

期待された救世主のはずが 短命に終わった悲運の客車【1】

いつも拙筆のログをお読みいただき、ありがとうございます。 1987年の国鉄分割民営化はまさに、日本の鉄道にとって「天変地異」にも等しい大事件といえるものでした。1872年に当時の新橋駅−横浜駅(旧汐留駅−桜木町駅)間に日本で初めて鉄道が開業する前年に…

この1枚から 国鉄車両の近代化の礎となった10系【2】

《前回のつづきから》 blog.railroad-traveler.info 特筆されるのは、オユ10やオユ12といった郵便車にも、この構造が使われたことでしょう。これら郵便車は、国鉄に車籍を置く客車ですが、所有は郵政省のものです。製造のための予算も国鉄のものではなく、郵…

この1枚から 国鉄車両の近代化の礎となった10系【1】

いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 鉄道車両というのはとかく重量が嵩んでしまうものです。それは、車体や台枠を構成する材料であったり、内装に使われる部材であったり、あるいは乗客が快適に旅行するための設備であったり、実に…

さらば「ムーンライトながら」 〜大垣夜行345Mの思い出〜【2】

《前回のつづきから》 blog.railroad-traveler.info 当時の列車番号は345M で、165系で組成された列車でした。 深夜の川崎駅に滑り込んできた165系の345Mには、すでに大勢の人が乗っていて、とてもではないが座席に座ってくつろいで乗るような列車ではなかっ…

悲運の貨車〜経済を支える物流に挑んだ挑戦車たち〜 番外編・見た目は貨車でも分類は客車 期待に応えることなく数年で儚く散ったマニ44【2】

〈前回からの続き〉 blog.railroad-traveler.info マニ44は1978年から製造が始められました。 既にこの頃の国鉄は、財政事情は火の車の状態でしたが、老朽化が激しくなった旧型の荷物車をそのまま運用し続けることは、補修用部品の入手も困難になり、検修の…

悲運の貨車〜経済を支える物流に挑んだ挑戦車たち〜 番外編・見た目は貨車でも分類は客車 期待に応えることなく数年で儚く散ったマニ44【1】

いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 きっと活躍してくれるであろうという大きな期待をもたれながらも、その期待に応えることなく残念な結果になってしまいことがあると思います。例えば、「これは使えそう」と思い実際に買ってみた…

この1枚から 伝統の九特「富士」それは歴史の中に【2】

〈前回からの続き〉 blog.railroad-traveler.info 東海道・山陽線を走破する、一等車と二等車で組成された特別急行列車に「富士」という愛称がつけられた後も、社会的に地位が高い人が乗客であることには変わりありませんでした。 1926年に山陽線海田市駅付…

この1枚から 伝統の九特「富士」それは歴史の中に【1】

新年あけましておめでとうございます。 昨年は多くの方にご愛顧いただき、ありがとうございました。本年も、変わらぬご愛顧いただきますとともに、ご指導ご鞭撻のほどお願いいたします。 さて、新年といえば縁起物です。その中でもめでたいというか、日本を…

いろいろな「物」を運ぶ貨物列車 郵便物は令和の時代も鉄道で運ばれている【1】

いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 もうすぐ2020年も終わりを迎えようとしています。年が明けたときには、まさかここまで混乱に満ちた1年になろうとは誰が想像したでしょうか。確かに年明け頃には「新型ウイルスによる道の肺炎」…

この1枚から 「はやぶさ」、それはかつて寝台特急だった【後編】

前回のつづきから blog.railroad-traveler.info blog.railroad-traveler.info 分割民営化後、「はやぶさ」にはさっそく利用者を増やすべく、改善策が施されました。それまでB寝台は開放式が当たり前でしたが、利用者の意識が変わってきたことで、個室の需要…

この1枚から 「はやぶさ」、それはかつて寝台特急だった【中編】

前回からのつづき blog.railroad-traveler.info そのルーツは第二次世界大戦の最中である1942年にまで遡ることができます。 この年、本州と九州を直接鉄道で結んだ関門トンネルが開通しました。それまで東京と下関を結んでいた第3・4列車が、関門トンネルの…

この1枚から 「はやぶさ」、それはかつて寝台特急だった【前編】

いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 「はやぶさ」という列車といえば、何を思い浮かべるでしょうか。 やはり、東北・北海道新幹線を320km/hで駆け抜け、東京と新函館北斗間を結ぶ「はやぶさ」というのが現在のお決まりだと思います…

この1枚から 青色に白帯を巻いた客車

いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 筆者がまだ小学校に入学した頃、たまに家族で川崎駅にある駅ビル(現在は「アトレ」になっています)の食堂で夕食を食べに行ったことがありました。あまり裕福ではなかったので、こうした外食は…