国鉄
12.マルス導入と急行格上げが変えた伊豆優等列車:1965〜66年の愛称整理と実質値上げの実態 この記事をまとめると 1965年、マルス102の稼働と「みどりの窓口」開設に合わせ、伊豆方面の列車名は「あまぎ」へ統合され体系が整理された。翌1966年には残る準急…
東海道新幹線開業後も伊豆方面の直通需要は強く、国鉄は在来線優等列車を即時廃止せず存続させた。臨時特急「ひびき」廃止で余剰となった157系は準急「伊豆」に転用され、設備の豪華さから2往復が急行へ格上げされ料金も上昇。残りは「あまぎ」に組み込まれ…
東海道新幹線開業後も伊豆方面の直通需要は強く、国鉄は在来線優等列車を即時廃止せず存続させた。臨時特急「ひびき」廃止で余剰となった157系は準急「伊豆」に転用され、設備の豪華さから2往復が急行へ格上げされ料金も上昇。残りは「あまぎ」に組み込まれ…
1961年の伊豆急開業で東京〜下田直通体系が成立し、「伊豆」「おくいず」「あまぎ」が伊豆観光の主役となった。1964年の東海道新幹線開業で国鉄は乗り換え利用を促し準急削減を狙ったが、熱海・三島での乗り換え負担や料金面から直通列車の需要は依然強く、…
1961年、日光観光向けの豪華準急「日光」に使われていた157系が、東京を越えて伊東まで直通する「湘南日光」として運転を開始した。特急並みの設備を備えた異色の急行形電車が伊豆に乗り入れた背景には、日光と伊豆の観光需要を結びつける国鉄の戦略があった…
1959年、伊豆準急に80系の後継として新性能電車153系が投入された。カルダン駆動と空気ばね台車により高速性能と乗り心地が向上し、10両+5両の長大編成で伊東・修善寺へ直通した。二等車は「並ロ」を採用し、等級制の名残も見られた。同年、駿豆線が600Vか…
1953年に「あまぎ」は「伊豆」と改称され、翌年には「伊豆」と「いでゆ」が正式に定期列車となった。さらに新宿発着の新「あまぎ」も登場し、伊豆方面の準急は急増した。観光需要の高まりで利用者が殺到し、準急券の売れすぎによる混雑や座席確保の問題が深…
1950年、80系電車で運転された準急「あまぎ」は東京―熱海間を1時間29分で結び、客車列車より33分も速く“湘南特急”と呼ばれた。14両の長大編成で伊東・修善寺へ直通し、三島では1500Vと600Vを切り替える独特の転線作業も行われた。好評を受けて「いでゆ」「は…
80系電車は「湘南形」として知られ、戦後の輸送逼迫を背景に国鉄が開発した長距離用電車だった。従来の電車とは異なり全席クロスシート中心の設備と高い加速性能を備え、客車に匹敵する快適性を実現した。GHQの制約下で横須賀線用名目で製造されたが、湘南準…
戦後、旅客輸送は復員や買い出し客で逼迫したが、1949年に東京―伊東間で準急が復活し、観光輸送再開の象徴となった。準急料金が設定され、湘南準急「いでゆ」として愛称も付与されるなど国鉄の期待は大きかった。さらに修善寺直通も再開され、1950年には最新…
国鉄末期、一般公開で賑わう新鶴見機関区の片隅に、廃車前提で留置されたDD13 346号機が静かに佇んでいた。広島・内郷・水戸・新鶴見と各地で入換機として活躍しながら、合理化の波で淘汰対象に。しかし解体を免れ、京葉臨海鉄道KD55 103として再出発し、現…
西伊豆の玄関口である沼津には、三島から修善寺へ向かう駿豆鉄道が開通し、1933年には東京から修善寺直通の列車も運転された。1934年の丹那トンネル開通により東海道本線は海岸ルートへ移り、準急列車も沼津まで延長され伊豆観光はさらに発展した。しかし日…
伊豆半島は山が海岸近くまで迫る険しい地形のため、東西移動が難しく交通の便が悪かった。特に南伊豆では鉄道開通が長年の悲願だった。東海道本線は丹那山の難工事を避け御殿場経由で開業したが、1920年に国府津―熱海間が開通し、熱海が伊豆の玄関口に。1928…
年度末はどの仕事も忙しく、鉄道マン時代の筆者も年末の繁忙期やダイヤ改正準備で慌ただしい日々を過ごしてきた。疲れを癒やすには温泉が恋しくなるが、近年の箱根は外国人観光客で混雑と高騰が進むため、落ち着いて過ごせる伊豆の温泉地に惹かれるようにな…
国鉄分割民営化により、橋桁設置用の超重量級操重車ソ300形は扱いが課題となり、2両ともJR東日本に継承された。田町電車区に配置されつつ神奈川工事区が運用を担い、しばらくは活用されたが、運用の煩雑さと保線機械の進歩により次第に出番を失う。製造から4…
ソ300形は1966年に日立製作所で2両が製造され、橋桁設置を担う操重車として東京第二工事局三島操機区に配置された。工事局は国鉄の大規模工事を担当する専門組織で、三島は新幹線建設の拠点として重要な位置にあった。ソ300形は橋梁・高架工事で活用され、出…
3:ソ300形とは? 35トン吊り水平ブームと16軸台車を備えた国鉄最強の橋梁工事用操重車 《前回からのつづき》 ソ300形は軌道内で作業をすることが前提の、橋梁建築用の操重車であるので、建築用クレーンのようなブームを引き起こす事はできません。そのよう…
ソ300形は1966年に日立製作所が製造した、橋桁設置用の国鉄最大級の操重車である。ソ200形では対応できない重量級橋桁に対応するため、35トン吊りの強力な水平ブームと、154トンの車体を支える16軸の特殊台車を採用。自走機能も備え、橋桁を吊ったまま現場へ…
元国鉄マンの教育者が綴る鉄道回想録。小学生時代、市立図書館で読み耽った「国鉄車両ガイドブック」を手に、新鶴見操車場で実機を観察した日々を振り返ります。奥多摩と川崎を結んだ石灰石輸送の主役・ホキ2500形や、16軸の巨体を誇り自走も可能だった特殊…
15:おわりに 《前回からのつづき》 急行「銀河」が歩んだ59年は、日本の鉄道史の中でも特別な意味をもつ時間だったと思います。戦前の名士列車を源流とし、戦後の混乱期から高度経済成長、国鉄末期、そしてJR時代へと、常にその時代の“夜の移動”を支え続け…
1990年代以降、高速バスの低価格化や航空運賃の自由化、新幹線「のぞみ」の高速化により、夜行列車の利用は急減した。寝台特急の統廃合が進む中、「銀河」も編成縮小を重ね、2008年に廃止された。戦前の名士列車17・18列車を源流とし、戦後の復興期から高度…
DE10 1691〔函〕 五稜郭 2006年8月6日 筆者撮影 DE10形といえば、国鉄時代は全国至る所で見ることができた、万能ディーゼル機だったといえます。北は北海道、南は鹿児島まで全国に配置され、その製造数は708両にも上り、国鉄のディーゼル機としては最大でも…
1986年、国鉄最後のダイヤ改正で「銀河」は14系から24系25形へ置換えられ、三段式から二段式寝台へ移行して居住性が向上した。しかし目的は設備改善だけでなく、翌年の国鉄分割民営化に向けた運用・配置の再編が主因で、品川客車区から宮原客車区への担当移…
1985年、「銀河」は老朽化した20系から14系へ置換えられ、寝台幅が拡大して居住性が向上した。同年のつくば科学万博では大量輸送が必要となり、国鉄は常磐線の交流区間や地磁気観測所の制約で直流車を使えず、交直流車や気動車、583系、さらには12系・20系客…
1985年、「銀河」は老朽化した20系から14系へ置換えられ、寝台幅が広がり居住性が向上した。同年のつくば科学万博では大量輸送が必要となり、国鉄は全国から車両をかき集め、583系や気動車まで常磐線の臨時列車に投入した。背景には波動用車両の廃車進行や財…
1966年、急行「銀河」の二等寝台車は10系オハネ17形から、戦後改造のスハネ30形へ置き換えられた。10系の製造が追いつかず、旧型客車を改造して需要を補ったためである。三段式寝台は狭く居住性は低かったが、当時の体格や運賃事情から許容されていた。1968…
1960年代に入り国民所得が向上すると、夜行列車では座席より寝台を求める利用者が急増し、1961年に「銀河」は座席車を廃止して全車寝台化された。一等寝台に加え、ナハネ10・11形など10系二等寝台車が主体となり、名実ともに寝台急行へ進化。1964年にはビュ…
1953年の二等級制移行により、従来の一等・二等・三等は再編され、車両記号も「ロ」「ハ」へ統一された。1955年には軽量客車10系が「銀河」に投入され、翌1956年には旧三等に相当する二等寝台車ナハネ10形が登場し、庶民も利用できる夜行寝台が実現した。ナ…
2026年3月、久留里線の久留里〜上総亀山間が廃止される。沿線人口の減少や利用者の極端な少なさに加え、コロナ禍で鉄道利用が激減し、JR東日本は赤字路線の維持が困難となった。地域輸送の責務と企業経営の狭間で揺れる中、末端区間の廃止は避けられない決断…
950年、スハ43系の登場により「銀河」の三等車は新製鋼製車へ置き換えられ、二等車にはGHQの指示でリクライニングシートを備えたスロ60形が投入された。列車番号は13・14列車となり運転区間は神戸まで延長。1951年には二等寝台車がスロネ30形に更新され、195…