《前回からのつづき》
暫くの間は、直行バスとして運行されていましたが、やがて羽田空港が沖合展開事業で拡張されると、1991年には拡張地域に新たに建設されたターミナルビル「ビッグバード」が開業、すべての機能が新ターミナルビルに移されました。そして、新ターミナルビルの開業に合わせて、従来のターミナルビルに接続していた羽田整備場駅−旧羽田空港駅間を廃止、新たに建設された線路へ付け替えの上で、羽田整備場駅−(新)羽田空港駅間を延伸開業させました。
一方、羽田空港へ乗り入れるリムジンバスの多くを運行していた京浜急行は、それだけでは満足していませんでした。京急には空港線と呼ばれる鉄道線を有していましたが、その終着駅は羽田空港駅とは名乗っていたものの、それは名ばかりであり、旧ターミナルビル時代も駅から離れた場所であるため、空港への連絡輸送という役割から程遠いものでした。しかも、沖合展開事業によってターミナルビルが移転してしまうと、ますますその距離は大きくなり、京急にとって東京モノレールと同様にターミナルビルに直結した駅を開業させることは悲願でした。
幾度となく鉄道事業の免許を申請するものの、監督官庁である運輸省や東京都からは、「東京モノレールがあるからそれで十分」と言わんばかりに門前払いを喰らい続けてきたのです。
しかし、沖合展開事業が進み、従来のターミナルビルよりも大きく、さらに新たに建設された滑走路によって旅客機の運航容量が増えると、当然、その利用客が多く押し寄せてくることは必至で、中量輸送交通機関であるモノレールではそれに対応できなくなることから、京急に対して新ターミナルビルへの乗り入れが認められたのでした。
羽田空港乗り入れの免許を得た京急ですが、すぐにというわけにはいきません。そこで、まずは(旧)羽田空港駅から200mほど空港寄りへ新たな駅を建設して羽田駅を開業、空港島内に再度鉄道の乗り入れを果たしました。羽田駅の開業とともに、(旧)羽田空港駅は廃止として、都営地下鉄浅草線から羽田駅まで直通運転をすることで、都心から羽田へのアクセスを担うようになりました。しかし、この羽田駅は空港島へ乗り入れただけで、実際にはターミナルビルからはまだ遠い位置にありました。そこで、ターミナルビルに延伸開業するまでの間、ここから東京モノレールの天空橋駅での連絡運輸を実施し、乗り換えは生じるものの、モノレールを介して羽田空港への利用客を輸送したのでした。
この間、京急は羽田空港への旅客輸送は、やはりリムジンバスを主力としていました。首都圏各地からは、高速道路経由で羽田空港への輸送を展開し、徐々にその運行範囲を拡大させていきました。
羽田空港からもっとも近い位置にある駅の一つ、川崎駅へは変わらず直行バスとして運行が続けられていました。車両も高速バス仕様のものから、路線バス仕様ですが高速バスとしても運用できる、いわゆる「ワンロマ」仕様の車も充てられていました。
こうした1998年に羽田空港第2旅客ターミナルビルが開業すると、状況が一変しました。1993年から建設工事が進められていた空港線が完成し、ついに、名実ともに羽田空港へ直結する羽田空港駅が開業したのでした。京急にとって長年の宿願が叶い、都心から、そして沿線からの空港利用者の鉄道による輸送が始まり、当時は「京急、搭乗。」というキャッチコピーが書かれた広告を、JR東日本の列車や駅、さらには他の空港やそこにアクセスする鉄道やバスなど、ほぼ全国で宣伝したのでした。それだけ、この羽田空港駅の延伸開業は、京急にとって悲願だったことが伺われます。
その一方で、路線バスを取り巻く状況は年々厳しくなっていました。多くの大手私鉄が運営する自動車事業を分社化して、鉄道会社から切り離されていった中で、京急は分社化が比較的遅い方だったといえます。しかし、1999年に羽田空港−川崎駅を結んでいた川空線を含む、羽田営業所が所管していた路線バスを、新たに設立した子会社である京急バスを設立して移管しました。
さらに、2003年には京急バスは羽田京急バスに商号を変更、羽田京急バス東京営業所に変わり、京急が運営していた他の地域の自動車事業も順次子会社として設立されたバス会社へ移管していきました。
そして、空港連絡バスの中では比較的距離が短い川空線は、2004年にそれまでの川崎駅−羽田空港間の運転形態を直行から、一般路線バスへと改変したことで、川崎駅から羽田空港への空港連絡バスは姿を消していったのでした。
この背景には、やはり1999年の空港線延伸開業があったといえます。都心部を走る都営地下鉄浅草線から空港線への直通列車はもちろんですが、京急は京急蒲田以南の川崎、横浜そして三浦半島方面からの空港連絡輸送にも力を入れ、京急蒲田駅でスイッチバックは生じるものの、直通列車を多数運転するようになりました。そして、従来は川崎駅との間を直行バスで結んでいましたが、多くが京急の鉄道線へ移転していったため、利用者も減少したいた事もあって、途中のバス停で乗降ができる一般路線化に踏み切ったのでした。
こうして、長く続いた川崎駅からの空港連絡バスの歴史は幕を閉じましたが、一般路線化の後も川崎駅との間にバスを運行し続けています。ただし、路線バスとなったことで所要時間は増え、多くの人はより速く羽田空港へ行くことができる鉄道を利用している実態になったのです。
写真は2004年に撮影した、羽田京急バス東京営業所所属NH6539号車で、型式は三菱ふそうU-MP618Nです。リムジン・路線兼用なので前扉と中扉がある路線バス車体ですが、型式が示すようにサスペンションはエアサスペンションを装備したモデルで、さすがに高速道路も走るリムジン運用にも就くので、乗り心地には配慮していたようです。
市役所通りから川崎駅東口バスターミナルへと進んでいく、羽田京急バスのNH6539号車 三菱ふそうKC-MP617。前扉と中扉のある路線バス構造の車体だが、サスペンションはエアサス、座席は廃バックシートを備え、外装も京急リムジンバスカラーを身にまとうなど、リムジン・路線兼用の車だった。直行路線から一般路線化した川空線での運用に最も適した車だったといえる。バスの左側に写る「川崎Da-iCE」には、東急ハンズやカメラのさくらやなど、既に過去のものとなってしまった看板が見える。(羽田京急バスNH6539 三菱KC-MP617N 2004年12月25日 川崎駅 筆者撮影)
また、路線バスではいわゆる短尺と呼ばれるホイールベースが短い車を導入することが多いようですが、リムジン運用では高速道路を走行時に立席が認められていないため、座席を多く設置する必要があるため、収容力の大きい長尺が選定されていました。
塗装は空港連絡バスと同じ白をベースにした赤い帯を巻いたもの、そのデザインは京急のリムジンバスと同じですが、中央に扉があり、車体も路線バスと大きく変わらないので、なんとなく違和感があるものに感じました。
路線バスボディーをもち、エアサスペンションを装備し、リムジン塗装を身にまとったこの車は、一般路線化された川空線での運用に就いている姿は、「空港へ行くことができる」ことを主張しているようにも見えました。もっとも、川崎駅から羽田空港へのアクセスは鉄道に移行していて、窓越しに見える車内には空席もあるようでした。
一般路線化しても、直行時代のリムジンバスとしてのカラーを色濃く残しているのは、やはりこうした仕様の車で運行していることによるものといえます。
ところで、筆者が川崎駅−羽田空港間の川空線に乗った頃は、白と赤のリムジン塗装ではありませんでした。薄茶色に黄色を使い、エアポートリムジンバスの老舗ともいえる東京空港交通が運行するバスの色違いともいえるデザインでした。東京空港交通が「Airport Limousine」と書かれていたのに対し、京急のバスは「Limousine Sservice」と書かれていましたが、どちらも空港へのアクセスを担うことは一目瞭然でした。
また、中長距離を走るリムジンバスとは異なり、川空線は10kmにも満たない短距離路線であったため、高価な高速バス仕様の車ではなく、路線バス仕様の車で中扉のないいわゆる「トップドア」と呼ばれるものを主力として充てていたようでした。そのため、正面から見れば一般の路線バス、横から見ると観光バスに近いという、首都圏ではあまり見られない形態の車が走っていたのです。
今日、コロナ禍を経て、羽田空港の利用者数はほぼ戻ったといっても過言ではないでしょう。その羽田への空港連絡輸送は京急の宿願だった鉄道の乗りれによって達成し、多くの人を高頻度で運行される列車によって担われています。実際、京急川崎駅から羽田空港行きの列車に乗ると、スーツケースを携えた人たちで混雑し、空港へのアクセスとして重要なポジションにあります。しかし、一般路線化されたとはいえ、旧ターミナルビル時代から川崎方面との連絡輸送を担ったその歴史は、京急のリムジンバスの路線網を広げるうえで、重要な役割を担ったといえるでしょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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