いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
「縁」とは不思議なもので、忘れた頃にかつて親しくしていた人と再会することもあります。あるいは、ある日突然、運命の人といえるような人に出会うこともあるでしょう。
それは土地も同じようなものだと感じることがあります。
いまから20年近く前は東急田園都市線沿線(といっても、セレブと呼ばれる人達が住むようなところではありませんが)に住んでいましたが、その後、東急東横線沿線に移り住みました。
仕事も、実家近くの職場からスタートし、昨年で今の生業になってから7か所目の職場に勤めています。が、この7か所目の職場は、なんと先ほどお話しした20年近く前に住んでいた地域で、かつて住んでいた賃貸マンションを眺めながら仕事をしています。
20年前に去った地域で働き、そこに貢献するとはなんとも不思議な「縁」です。
さて、実はこの地域、いわゆる交通不便地域といえるところでもあります。田園都市線沿線とは書きましたが、最寄りの駅まで歩こうものなら少なくとも30分以上かかり、路線バスが唯一の交通機関で、それは2024年現在も変わりません。
その路線バス、筆者が住んでいた頃は実に多くの本数が運転されていました。通常、バス停に掲げられる時刻表には、発車予定の時刻が書かれています。しかし、この地域の路線バスの時刻表は、表の中にかききれないほど運行されていたため、具体的な「分」の表記はなく、代わりに「この時間は、3分から5分間隔で発車します」と、なんともアバウトな感じで書かれていたのでした。
もっとも、コロナ禍を経た現在では、運転士の離職と2024年問題による人手不足で減便はされていますが、それでも朝夕のラッシュ時間帯には同じ行き先に向かうバスが数珠つなぎになって走っている光景も見られるほど、駅への便があまりよくないのは変わっていません。
とはいえ、地域の人々にとって貴重な交通手段であるといえます。
改修整備前の武蔵溝ノ口駅・溝口駅南口ロータリーで、折り返しの一時を過ごす川崎市バス・W-2688号車 三菱ふそうU-MP218K。路線バスといえば、透明な窓ガラスに二段サッシが当たり前、とにかく車両にコストをかけないようにしていたようですが、1980年代終わり頃から1990年代にかけて、少しでもグレードを高くしようとバス事業者によっては独自の仕様も出てきた。ブロンズガラスに逆T字窓というこの車を見たとき、路線バスも変わるものだと感じた。実際、同じMP218Kでも、鉄道職員時代に利用していた相鉄バスはこのような仕様の車はなく、いかにも実用本位といったもので、しかも車掌の乗務がないのに車掌スペースがあったほどだ。この後、改修整備によってロータリーは様変わりし往時の面影はほとんどなくなった。この車も、撮影から2年後には川崎市で用途廃止となり、長野県の上田バスへ移籍していってる。(川崎市交通局W-2688 三菱ふそうU-MP218K 武蔵溝ノ口駅・溝の口駅 南口2003年10月3日 筆者撮影)
写真は2003年に武蔵溝ノ口駅南口で撮影した、川崎市交通局が運営する川崎市バスです。まだ、バスロータリーが現在のように駅前広場として整備される前のもので、バスの背後には古い店舗も写っています。
まだ昭和の香りが色濃く残っているこのロータリーで、折り返しの時間を過ごしていたのは、川崎市北部を所管とする鷲ヶ峰営業所配置の三菱ふそう製U-MP218K短尺車で、新呉羽自動車製の車体を架装したものです。
当時、三菱ふそう製の大型路線バスは、車体の架装メーカーが三菱自身で製造するエアロスターMと、系列の新呉羽が製造するエアロスターKがあり、この車は後者のものでした。
スケルトン構造と呼ばれる1980年代に開発されたボディは、それまでのモノコック構造と比べて角張ったデザインとなり、外板はリベットがなくなって非常にスッキリとした近代的なものになりました。
そして、三菱製の路線バスは、三菱製と新呉羽製を問わずに、前面左に小さな窓を装備しているのが大きな特徴です。これは、今日製造されている車にも踏襲されていて、同じような窓を装備しているのは、日野自動車が製造していたブルーリボンシティだけでした。
この窓の利点は、運転士が左前方の死角となる部分を目視で確認できることでしょう。特に大型の自動車は死角が多く、発車時や右折時にこの小窓から安全確認ができることは、とても大きな意味があると考えられます。
また、バス停に停車するときには、必ず歩道側に幅寄せをしますが、バスを待っている乗客に接触させることなく、可能な限り歩道側に寄せることが可能になるのも、この窓のおかげだと言えます。こうすることで、後続車両への影響を最小限に置かせる効果も期待できるほか、歩道との間を短く停車できることは、乗客の乗り降りを助けることも可能になります。
写真の鷲ヶ峰所属のW-2866は、比較的最後まで残った新呉羽製ボディーを架装した車でした。すでに多くの新呉羽製ボディーを架装した車が経年による用途廃止と、平成17年に施行された首都圏八都県市の粒子状物質排出規制に対応できない車の廃車などによって、姿を消しつつありましたが、このW-2866はDPFを装着させて稼働し続けました。
もう一つ、川崎市バスの車は比較的標準仕様にちかいものの、細かな点で独自の仕様を施す傾向がありました。お隣の横浜市はかなり独自色の強い仕様で目立っていましたが、川崎市のものはそれに比べれば比較的「おとなしい」ものだったといえます。
そうしたことから、窓ガラスはブラウンの色味をもったブロンズガラスが使われ、サッシも黒色のものを使うことで、路線バスとしては高級感を演出していました。また、当時の路線バスの多くは二段サッシが標準でしたが、この車はいわゆる逆T字窓、上部が引違いで下部が固定されているという、路線バスとしては高級感のあるもので、もしかしたら貸切車にも使う「ワンロマ車か?」とも思いもしたものでした。
このような、高級感のある路線バスは数が少なく、バス停などで待っていてこのような仕様の車がやってくると、ちょっと得した気分にもなったもので、特に疲れた仕事帰りにこれに乗ると、ちょっとだけ癒やされたような気がしました。
1992年に新車登録されたこのW-2688号車は、写真を撮影した2003年の時点で、すでに11年が経った経年車で、次々に導入される新車の波に押され気味でした。そして、2005年に川崎市では用途を失ったあと、長野県の上田交通に移籍していきました。
今日では、路線バスを取り巻く環境は非常に厳しく、事業者独自の仕様を仕様を車にもたせることは難しく、多くはメーカーが設定した仕様のを導入することがほとんどです。その点で、このW-2688号車はバブル崩壊直後だったとはいえ、ある意味潤沢な時期の路線バスだったといえるでしょう。
それにしても、三菱のネーミングは「エアロ」や「スター」、さらには「スペース」という空にまつわるネーミングが好みのようです。事業廃止になり開発が頓挫したリージョナルジェット機も、最初は「MRJ(Mitusbishi Regional Jet)」を名乗っていましたが、後に「Mitsubishi SpaceJet」と変えました。どうやらかの有名な零式艦上戦闘機(零戦)を生み出しただけあって、空へのこだわりが強いのかわかりませんが・・・。
普段は鉄道の記事を書いておりますが、今回はあまり知見のない路線バスを取り上げてみました。資料も少なく、筆者のバスに関する知識も浅く、そして何より鉄道と自動車とでは同じ交通機関でも大きく違いがあります。
もしかすると、バスファンの方から「違う」というご指摘もあるかも知れませんが、そこはどうぞご容赦いただけると幸いです。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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