《前回からのつづき》
■1000形
第二次世界大戦が終わり、戦後の混乱も少しずつ落ち着き始めると、経済面での復興は少しずつ進み始めていました。1950年に勃発した朝鮮戦争は、日本の経済復興に大きな影響を与え、いわゆる朝鮮特需と呼ばれる状態になりました。
こうした経済状態の中で、日本の工業は回復を始め、八幡製鉄所を沿線にもつ北九州線の利用客も増加の一途をたどり、2軸ボギー車をもってしても、その需要がさばききれないほどになりました。
1950年の時点で、北九州線の1日あたりの利用者数が321,800人であったのが、3年後には359,295人にまで膨れ上がり、西鉄も続行運転や高頻度運転などで需要に応えようとしましたが、それも限度がありました。
そこで、1列車あたりの乗車人員を増やすため、2車体連接車を導入することにし、1953年から製作されたのが1000形でした。
1000形と呼ばれる電車は、北九州線用のものと福岡市内線のものがあり、どちらも似たようなものでした。
北九州線用の1000形は、全部で64両もつくられました。それだけ、当時の北九州線の需要が逼迫していたことが伺われます。
製造を担当したのは川崎車輌、近畿車輌、帝国車輌、日立、日本車輌、そして九州車両の5社に渡りましたが、車両のサイズや性能などはすべて統一されていました。こうした施策は保守の合理化や部品の標準化をすることで、運用コストを軽減させることを目的としていました。今日では当たり前になっている手法を、1950年代に確立させた西鉄は、ある意味で先見の明があったと言えるでしょう。
2車体連接という構造をもった1000形は、乗車定員130人というもので、これは主力の600形が80人に対して約1.6倍の収容力をもっていたのでした。これだけの定員をもつ1000形は、北九州線の輸送力を大きく増強させたのは言うまでないことでした。
1000形は長期に渡り、大量に増備されたので、製造途中で何度も細かい設計が変更されました。
初期に製造された車両は室内灯に白熱電球を使っていましたが、1011AB以降はこれを蛍光灯に変えられ、その後、全車がこれに変えられました。1021ABからはそれまで半鋼製車体だったのを全鋼製車体に変えました。不燃化と軽量化が図られ、より近代的な車体構造になっていきます。1031ABからは客室窓をアルミサッシ化、1051ABかたは方向幕の大型化にするなど改良が加えられていきました。
最終増備車となる1062AB以降では、ツーメン化改造の準備工事を施されて登場しました。これは、運転士と車掌1人が乗務するもので、1両辺りに乗務する乗務員を削減し、合理化を進めるためのものでした。
北九州線で輸送力増強用として活躍した連接車である1000形も、晩年はその数を減らしていき、一部は西鉄の子会社である筑豊電気鉄道に移籍していった。廃止された福岡市内線から連接車が主力となったが、2006と2007の2編成は北九州線からやって来たものだった。(©Muyo, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
北九州線の輸送力車として登場した1000形でしたが、早くも2車体連接車をもってしても対応が難しい状況になっていきました。1961年には北九州線の乗車人員が、1日あたり457,232人にまで達し、さらなる輸送力を増強する必要に迫られたのです。
そこで、1962年に1000形のA車とB車の間に中間車体を挿し込むC車を製造して組み込み、3連接車体とすることで、さらなる輸送力車として運用することになります。3連接車体にすることで、乗車定員も130人から160人にまで増やすことができ、混雑の激しい北九州線の救世主となったのです。
しかし、1970年代に入ると、モータリゼーションの進展や工場の縮小、沿線に住む人々が郊外へ転出していったことなどにより、利用客数は減少へ転じていきました。また併用軌道では、1963年に自動車の軌道敷の通行が認められたことにより、増える一方の自動車の波に押されて、路面電車の定時運行もままならない状態になり、次第に利用客が離れていくという悪循環に陥っていきました。
そのため、当初は輸送力車として登場した1000形は、次第に輸送力過剰となってしまい、余剰車となっていきました。1977年から、子会社である筑豊電気鉄道へ譲渡されたのを皮切りに、1000形の廃車が始められてしまいます。その結果、3連接車体をもった車両は1987年までに全車が廃車、残った2連接車体をもった車両も、残存した砂津−折尾間で活躍した後、1992年に砂津−黒崎駅前間の第二時廃止により、半鋼製車の1020ABと、全金属車の1024ABの2両だけになり、さらに2000年の全線廃止によりこれも廃車、形式消滅してしまいました。
筆者も1000形に乗ったことがありましたが、とにかく車内は広く感じられました。特に朝夕のラッシュ時に乗ることが多かったので、これがやってくると座席に余裕でありつくことができ、ちょっと嬉しい気持ちになったのを覚えています。
ただ、冷房化改造はされなかったため、初夏の暑い日に、1000形がやってくると、座れるのはいいが涼しくないので、早く寮の自室で冷房で冷やしたいという思いもありました。
北九州線向けの1000形は、筑豊電気鉄道へ譲渡された車両だけが残りましたが、同系の福岡市内線向けの1001形など一部は、他の軌道事業者へ譲渡され、今日でもその面影を見ることができます。
北九州線が全線廃止になってから既に10年近くが経ち、その面影を追いかけることは難しくなってしまいました。かつての拠点だった砂津車庫は、複合商業施設「チャチャタウン小倉」が建設され、観覧車まで設置されました。軌道が敷かれた道路には、電車代行バスが運行されるようになり、砂津バスセンターが設置されました。
ここから多くのバスが発着し、人々の貴重な脚として利用されていますが、かつて、路面電車である北九州線が門司から小倉、八幡、そして折尾、黒崎を結び、多くの人を運び、日本の経済を支えてきた歴史は、今後も語り継がれていくことを願うばかりです。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。