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2024年が明けた途端に、大きな災害が続きました。1日の能登半島地震では多くの被害が出て、今なお多くの方々が避難生活を余儀なくされています。2日には、東京羽田空港で着陸した日本航空機と、離陸待ちの海上保安庁機が衝突炎上する事故が起きました。そして、3日は福岡県北九州市の小倉駅近くにある繁華街の一つ、魚町で大規模な火災が発生しました。
年明け早々に衝撃的な規模の大きい災害が連発し、2024年はいったいどのような1年になってしまうのかヤキモキしたものです。
3つ目の小倉駅近くの火災。このニュースを観て、知っている場所だけあってことさらショックを受けました。ニュースを観ながら思わず「ここ、若い頃よく行った場所だよ」と家族に話したほどです。
さて、この小倉駅近くにある魚町。筆者が鉄道職員として赴任した1991年には、まだ路面電車である西鉄北九州線の電停がありました。それよりも遡ると、この魚町電停からは北方線と呼ばれる軌道線が伸びていて、いわば小倉の交通の要衝ともいえる場所でした。
そうした場所であるだけに、付近は多くの商業ビルが立ち並び、路地を入ったところには所狭しと商店や飲食店がある商店街も形成しています。今回の火災は、この商店街の中で発生し、この周辺の建築事情から木造の建築物が密集していたこともあって、被害を大きくしたといえます。
今回は、小倉駅近くで賑わいを見せた魚町電停を通り、100万都市北九州市の玄界灘沿岸を東西に結んだ軌道線、西鉄北九州線を取り上げてみたいと思います。
自宅と勤務先を往復するためには、様々な交通手段を使うことがあります。多くは路線バスや鉄道を利用すると思いますが、中には自家用車を使うこともあるでしょう。筆者も現在は、勤務先が交通不便地域にあるためコストがかかることを承知で自家用車を使っておりますが、できれば公共の交通機関を使いたいところです。
筆者は高校を出て以来、すでに33年の間、勤め人生活を送っておりますが、やはり通勤には鉄道とバスを利用することがほとんどでした。ところが、中には例外というものがあるもので、一つは1991年に小倉車両所に勤務していた頃は路面電車を利用していました。そして、仕事が変わった1998年にはモノレールも利用して通勤していました。通勤で利用していない交通機関は、航空機と船舶ぐらいしかないと思えるほど、バラエティーに富んでいたことに今更ながら驚かされるものです。
さて、1991年に鉄道職員になり、新人教育の一環として九州支社勤務を拝命、高校を卒業して間もなく見知らぬ西の地、北九州市で社会人生活をスタートさせると、小倉車両所での検修勤務をすることになります。
当時、筆者は会社が用意した鉄道寮で寝食をすることになりましたが、その場所は門司区の大里地区と呼ばれる地域で、南に連なる福地山地の麓でした。そこから九州北部に広大な路線網を張り巡らせている西鉄バスに乗り、隣の小倉北区の砂津と呼ばれるところで路面電車に乗り換えて通勤していました。
この路面電車こそ、今はなき西鉄北九州線で、西鉄の源流となった軌道路線でした。
政令指定都市の1つである北九州市は、北は響灘、東は関門海峡と瀬戸内海に囲まれた九州の北東端に位置する。写真のように都心部にも山があるなど、特徴的な地形をもっている中、かつては西日本鉄道が運営した北九州線という路面電車が走り、市民の貴重な交通機関としての役割を担っていた。写真は皿倉山から戸畑、小倉市街地、そして遠くに関門海峡を望んでいる。(©Suicasmo, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
会社から通勤定期券を支給され、券面には当然ですが知らない地名が並んでいました。「別院通り」から「砂津」を経由し「金田」までのもので、しかも砂津から金田までは電車を利用することが書かれていました。
電車?小倉でJR以外の鉄道なんかあったかな?などと思案していると、総務課の職員から「あるよ」と言われ、しかもその電車とは路面電車だというから驚きました。だいたい、九州に残る路面電車は熊本と長崎、そして鹿児島ぐらい。政令指定都市にある路面電車は札幌市(札幌市交通局)と広島市(広島電鉄)だけだと思っていたので、九州の政令指定都市である北九州市にも路面電車が走っていることに、大きな衝撃を受けたものでした。
《次回へつづく》
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