旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 数奇な運命を辿った急行形【2】

 こうして、急行列車のサービス改善を果たした153系電車が活躍する一方、他の地方線区は旧来の客車列車のままでした。東京・名古屋・大阪といった大都市圏を結ぶ列車が最新鋭の車両で運転されているのを、地方が黙って見逃すわけがありません。当然、地方都市からも急行列車に同様の車両による運転を望む声が上がりました。


前回までは 

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 同じ頃、国鉄は地方路線の電化を進めていました。戦後の石炭事情の悪化とともに、蒸気機関車から吐き出される煤煙が乗務員や乗客はもちろん、沿線住民への影響が大きく問題になっていたので、国鉄蒸気機関車から煤煙の出ない電気やディーゼルへと転換する必要に迫られていたためでした。

f:id:norichika583:20180517000623j:plain肥薩線を行くD51蒸気機関車牽引の貨客混合列車。蒸気機関車から吐き出される煤煙は乗客はもちろん乗務員にとっても悩みの種で、戦後は沿線の宅地化が進んだことから住民にとっても迷惑な存在となっていった。国鉄はこれらを解消するために無煙化の推進による動力近代化を進めることになる。©Sakurami1 Wikimediaより

 東海道山陽本線などの電化方式は直流電化という方式で進められていました。直流とは、簡単にいえば+極と-極が一定になって流れる電気で、身近なものでいえば乾電池から流れる電流が直流です。この方式では電車の回路構成は簡単で澄み、車両の製造コストも抑えられます。ところが、発電所から変電所へ送られてくる電流は交流のため、変電所では交流を直流へ変換しなければならず、また変換した直流電流は電線へ流すことで電力損失と呼ばれるロスも発生するので、変電所をたくさんつくらなければなりません。
 列車の運転本数もそれほど多くない路線に、地上設備のコストがかかる直流電化ではあまり経済的とはいえません。そこで、1950年代半ばから、発電所から送られてくる電気をほぼそのまま使える交流電化の試験が進められました。そして実用化の目処がつくと、東北本線黒磯以北や、北陸本線、さらには鹿児島本線日豊本線など、地方線区で列車の運転頻度もそれなりにある線区で交流電化が進められました。
 そうした線区で運転される急行列車も、電気機関車による客車列車での運転がされていましたが、それでも運転速度や加速面では電車列車にはかないません。やはり、153系電車のような設備と性能をもった車両が求められるようになります。
 そこで大都市圏の直流区間と、地方都市の交流区間を直通で運転できる車両を開発することで、交流区間にも電車による急行列車の運転が実現しました。これが451・471系電車でした。
 451・457系電車は直流用の急行形電車である153系電車に交直両用の機器を搭載したものでした。直流区間では従来の直流機器で走ることができますが、交流区間ではそのままでは走ることができないので、交流電流を直流電流に変える機器を装備しました。言い換えれば、変電所を小型化して電車に載せたというところです。
 こうして登場した451・471系電車は、1962年に常磐線の勝田と北陸線敦賀にそれぞれ配置され、常磐線では上野-仙台間を結ぶ急行「ときわ」と東北線の急行「みやぎの」に、北陸線では大阪-金沢を結ぶ急行「越前」での活躍をはじめます。どちらも300km以上の距離があり、大都市圏の直流区間から途中で交流区間へと乗り入れる列車で、まさに交直流両用の451・471系電車にうってつけの仕事場でした。もちろん、6時間近くの時間をかけて走るので、東海道線の急行「東海」などと同じく供食設備をもったビュッフェ車も連結されています。

f:id:norichika583:20180517000857j:plain国鉄の電化区間であれば直流・交流を問わず広域の運用を可能にした交直流両用急行形電車は、その特性を活かして大都市と地方都市を結ぶ長距離急行列車として運用された。

 1963年のダイヤ改正からは仲間も増やし、東北線の仙台にも増備車となる455系電車が配置され、東北線の仙台以北にも進出して上野-盛岡間を結ぶ急行「いわて」や、上野-山形間の急行「ざおう」など、いまでは新幹線で行くことが当たり前の長距離列車に使われ、東北地方一帯を走る急行列車を活躍の場としました。

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 電化方式を問わずに走ることができる交直流両用の急行形電車は、まさに大都市と地方都市を結ぶには使い勝手がよく、出力増強形の453・473系電車、さらには勾配の多い山岳区間に対応した455・475系電車と発展していき、瞬く間にその両数は増えていきました。
 1965年にはついに九州へと進出していきました。鹿児島線の南福岡に475系電車が配置され、山陽線と九州内を結ぶ急行列車での運用を開始します。これもいまでは考えられないような長距離列車で、名古屋-博多間を結ぶ急行「はやとも」や岡山-博多間を結ぶ急行「有明」など、山陽線の各都市と九州の各都市を結ぶ長距離急行列車として走ることになりました。

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 こうして、いずれもビュッフェ車を連結した堂々の10両編成で活動をはじめた交直流両用の急行形電車は、日常的に長距離を長時間かけて走り続けるという、今日では考えられないような過酷な運用をこなしていきました。しかもこの当時、特急列車というのはその名の通り「特別」急行列車。相応のステータスをもった特別な存在なので、今日の特急列車のように庶民が気軽に乗れるようなものではありませんでした。それ故、特急列車を補完しながらも、長距離を旅行する庶民の列車という存在だったといえます。
 こうして庶民にとって親しみのある存在といえる急行形電車。長距離を走る定期の仕事以外にも、臨時に設定される列車としても走ります。
 臨時列車として交直流両用の急行形電車が起用された列車の中に、「常磐伊豆」という列車が運転されたことがありました。常磐線の平駅から、東京を経て伊豆急下田修善寺を結ぶ列車です。今日では「東京・上野ライン」という名称で、常磐線の列車は特急も含めて品川駅まで乗り入れています。
 1960年代にこのような、東京を経由する複数路線に跨がる列車があったことは少し驚きです。いまでいうところの特急「ひたち」と特急「踊り子」を合体させたような列車は、常磐線の交流区間も走行することから、まさに交直流両用の急行形電車にとってその装備を活かすことができる列車だったでしょう。電化されている路線なら活躍の場を選ばない、交直流両用車の強みを遺憾なく発揮した形です。

*1:イカロス出版 国鉄形車両の系譜6「形式455系」より一部抜粋

*2:イカロス出版 国鉄形車両の系譜6「形式455系」より一部抜粋