旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 房総半島が気動車王国であったことを物語った久留里線のキハ30【2】

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《前回のつづきから》

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 房総半島の、とりわけ内房線の電化が比較的遅かった理由の一つとして、君津市の鹿野山にある国土地理院鹿野山測地観測所の存在があったと考えられます。鹿野山の測地観測所では、地磁気の観測を行っています。この地磁気の観測では、観測所近くを走る鉄道が直流電化されると、その観測に大きな影響を及ぼすことが考えられたからでした。

 地磁気とは、地球自体に帯びている磁気のことです。小学校の理科で学習することですが、棒磁石をタコ糸で吊るしておくと、N極が北を指し、S極が南を指すというもので、これが方位磁針であるということを学んだと思います。この地球が帯びている磁気の観測においては、非常に微弱な磁気の変化などを観測しているのが、気象庁地磁気観測所国土地理院の測地観測所なのです。

 ところが、この微弱な磁気の観測で、鉄道の直流電化は看過できない影響を及ぼすと言われています。

 これもまた小学校の理科で、電気と磁石の関係を学習した内容ですが、乾電池から電流を流すと、導線の近くに置いた方位磁針のN極とS極が電流の+からーに向くというものです。また、導線(コイル)を鉄心の周りに巻いて、そこへ電流を流すと磁石と同じ動作をする、電磁石というのもあります。これらはいずれも、乾電池を電源としていますが、その電流は「直流電流」なのです。すなわち、直流電流を流すと、その導線の周りには微弱ながらも磁気が生じるということです。

 日本の鉄道では、その多くが直流電化で行われています。これは、直流であれば車両に搭載する電気機器はそれほど多くしなくても済みます。これは、主電動機が直流電動機であることや、それを制御するのが抵抗器の接続組み合わせによって行われる「抵抗制御」であることなど、機器の構成や回路が簡単かつ信頼性が高い事などの理由で、多く採用されていたのでした。

 こうしたことのために、常磐線を電化するときには、取手以南を直流電化とし、これより北は交流電化とされました。また、常磐線を並行するように走る首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)も私鉄でありながら、守谷以南を直流電化で、守谷以北を交流電化で建設されたのです。

 それなら、地磁気の観測に影響を与えない交流電化にすればよいと考えられるでしょう。確かに、交流電化であれば、直流電化のように磁気が発生することを抑えることができます。

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外房線内房線をはじめ房総各線が電化されると、スカ色の111・113系がそれまでの気動車に代わって活躍を始めた。


 交流電化は、その建設コストが安価に抑えられるメリットもあります。しかし、架線から取り入れた交流電流は、変圧器で降圧して、それを整流器で直流電流に変換しなければならず、直流電気車のそれと比べて交流または交直流両用の電気車は搭載する機器が多くなってしまうため、車両の製造コストが直流に比べて高くなるというデメリットがあるのです。

 そしてもう一つ、首都圏から直通する列車が多い房総各線を交流電化とした場合、とうぜん、それまで首都圏で運用されている直流電車などは乗り入れができなくなります。これらをすべて交直流電車へ置き換えるには莫大なコストが掛かるばかりか、それまで製造した直流電車は余剰と化してしまいます。また、交直流車を製造する数を抑えるとなると、在来の直流車と新製の交直流車の運用を分けるか、あるいは、千葉駅あたりで系統分割するなど、非効率な運用をさざるを得なくなるでしょう。

 今日のJRのように、地域輸送を重点に置いたダイヤ編成ならそれも可能かもしれませんが、当時の国鉄ではフリークエントダイヤで編成した「国電ダイヤ」ではなく、普通列車といえども長編成で組成し、長距離走行を基本とした「汽車ダイヤ」でした。それ故に、東京から100kmにも満たない千葉駅あたりでの系統分割など、到底考えられることではなかったのです。

 こうして、房総各線は1970年代直前まで、電化工事が手を付けられることなく残されたのでした。

 しかし、いつまでも電化工事を遅らせるわけには行きません。当時、国鉄が進めていた動力近代化計画にも逆行しますし、非電化のまま残しておけば、先程も述べたように非効率な運用を残すことになってしまいます。

 そこで、測地観測所の磁気観測に影響を抑えつつ、列車の運用にも影響を及ぼさないために、房総各線は直流電化で進められることになりますが、内房線の一部区間については、き電区分を数kmごとに細分化し、変電所1か所に付き1き電区分とし、それぞれのき電区分は絶縁することで、地磁気への影響を抑える方法を採用したのでした。この方法は、通常の直流電化に比べて非常にコストが高くなりますが、それでもき電区分を細分化してまで直流電化を選択したのは、やはり首都圏から直通する列車が多かったためでしょう。

 その房総各線、特に房総半島をぐるりと一周する房総東線(現在の外房線)と房総西線(現在の内房線)が電化に漕ぎ着けた一方で、木更津ー上総亀山間を結ぶ久留里線と、大原ー上総中野間を結ぶ木原線(現在のいすみ鉄道いすみ線)は電化されず、そのまま非電化で残されました。どちらも輸送密度が低いことと、首都圏から直通する列車のない盲腸線であったことが理由としてあげられるでしょう。その後、木原線は特定地方交通線に指定され、1987年の国鉄分割民営化でJR東日本に継承されたものの、その翌年には当初の計画通りにJR東日本から切り離され、第三セクターへ転換されていすみ鉄道が継承、今日に至っています。

 一方の久留里線は、1968年の赤字83線による廃止勧告の指定は受けず、さらには1982年の特定地方交通線の指定に際しても、その名はリストに載りませんでした。これは、1987年時点での輸送実績が木更津ー久留里間が1日あたり4500人弱であったのに対し、木原線は1500人弱程度と差があることや、特定地方交通線の基準に照らし合わせても久留里線を廃止にする理由がなかったためでした。

 しかし、特定地方交通線の指定は免れたとはいえ、やはり輸送密度が低いことには変わりなく、結局はJR東日本に継承はされたものの、八高線や相模線のように電化はされずにそのままとされ、21世紀に入って四半世紀が経とうとしている2021年の現在でも、非電化のまま気動車が行き来するローカル色豊かな路線として残っているのでした。

 その房総半島がかつては気動車王国であったことを物語っているかのように非電化で残された久留里線には、国鉄時代の1963年からキハ35系が配置され、民営化後20年以上がたった2012年に次世代気動車であるキハE130系にその任を譲るまで、実に49年もの間、久留里線の主力として活躍していました。

 

《次回へつづく》

 

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