旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

「お家の事情」で構造が異なっても同一形式を名乗った北の交流電機【1】

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 1960年代は国鉄にとって、車両開発真っ盛りの時期といってもいいほど、実に多くの機関車が開発されました。特に交流電機は、パワーエレクトロニクスの技術の急速な発達によって一形式ごとに装備する機器が異なったため、性能も異なっていました。しかし、その実態は「交流電流を直流電流に変換し、直流直巻整流子電動機を動力とする」ことには変わりなく、言い換えれば「ACアダプターと直流モーター」を組み合わせたものであるといえます。

 とはいえ、黎明期は主整流器に水銀整流器を用いたものの、もともと振動に弱い繊細な電気機器であるにもかかわらず、走行中は常に揺れる鉄道車両に無理やり載せたため、期待したい性能を発揮することが難しく、故障が頻発する有様だったといいます。それでも、こうした機器を載せなければならなかったのは、当時は半導体を用いたシリコン整流器が実用化されていなかったことであり、後にそれが使えるようになると、信頼性に劣る水銀整流器から振動に強く使いやすいということで、これに換装されていきました。

 一方、地方幹線は交流電化であることが適当であるという決定をした国鉄は、東北や北陸、九州はすべて交流電化で工事が進められました。当然、ここに使う車両も開発しなければなりませんが、交流電化をされる路線は直流電化区間と比べても線路条件は厳しいところが多いため、それに対応した車両としなければなりませんでした。

 全国で電化工事が進められて行く中で、その対象は本州や九州で留まらず、気象条件の厳しい北海道にまで及ぶようになり、1968年に函館本線 小樽駅滝川駅間が交流20kV50Hzで電化されました。

 この函館本線の電化は、本州や九州の電化とは性格が異なるものだと筆者は考えています。というのも、通常、鉄道路線を電化する場合は、隣接する路線が既に電化されていて、電機なり電車なりが運用されていることがほとんどです。

 それらの車両は当然、非電化区間に入ることはできないので、境界となる駅では乗客が気動車ディーゼル機牽引の列車に乗り換えが生じます。乗り換えを生じさせない場合は、電化区間気動車ディーゼル期牽引の列車を乗り入れさせればよいのですが、当時の国鉄が実用化したディーゼルエンジンといえば、基本設計が戦前のものであるDMH17系列か、強力な出力をもたせたDMF31系列で、いずれも重量が重く排気量の割には低出力であり、燃費も悪い非効率なものでした。

 そのため、気動車ディーゼル期牽引の列車は足が遅いため、電化区間に乗り入れても電車列車が主体のダイヤに入れ込むには、相当の苦労がありました。くわえて、電化区間に多数の気動車列車を運行しては、せっかく巨額を投じて工事したものが「宝の持ち腐れ」となってしまいます。そのため、電化をする場合は、隣接する路線が既に電化されている場合がほとんどだったのです。

 しかし、函館本線の電化はそれとは性格が異なりました。

 電化の対象になったのは小樽と札幌を挟んで旭川までの区間で、函館−小樽間は対象から外されたのです。これは、札幌を中心に小樽−旭川間は都市化が進んでいて、人口が集中していたことが背景にあったと考えられます。沿線の人口が多ければ、当然輸送量も多くなり、それを捌くために多くの列車が運転されます。

 しかし、単に列車の運行頻度を上げればよいというものではなく、その路線でどの程度の列車が運行できるかという線路容量も考えなければなりません。足の遅い気動車では線路容量も低くなるので、列車の増発も難しくなってしまいます。電車であれば、気動車と比べて加速性能は格段に上がるので、線路容量も増えて列車の増発も容易になるのです。

 

函館本線・小樽-旭川間の電化にともなって国鉄が用意した711系は、初の交流専用電車だった。本州と比べて冬季は厳しい気象条件から、近郊形電車ではあるが乗降用のドアは車端側に寄せられた2ドアで、客室内の保温を保つ観点からデッキ付になるなど急行形電車に近い仕様となった。そのため、電化区間で運行される急行列車にも充てられた実績がある。サイリスタ制御を採用するなど、当時の交流電車・交流電機の中では最も新しい技術も採り入れている。分割民営化後に後継となる721系や731系などが登場するまで札幌都市圏の主力として活躍し、2015年3月のダイヤ改正をもって運用を離脱、全車廃車となり系列消滅となった。過酷な環境で運用されたにもかかわらず、実に40年以上も酷寒の北の大地を走り続けた。(クハ711-113×3〔札サウ〕 札幌駅 2005年5月29日 筆者撮影)

 

 1968年に函館本線 小樽−滝川間が電化されました。

 この小樽−滝川間の電化開業に合わせて、国鉄初の北海道向け交流電車である711系も開発されました。711系は北海道という冬季の厳しい気象条件でも運行ができる、特殊な装備をもった近郊形電車でした。

 近郊形電車といえば、3ドア・セミクロスシートというのが定石です。しかし、この構造では言葉通り「刺すような寒さ」の北海道では、駅に停車するごとに車内はたちまち温度が下がり、乗っていられるようなものでなくなってしまいます。

 そのため、711系は冬季の保温性を十分に考慮した設計でした。乗降用のドアは、車端部に寄せた2ドアとしたため、153系などの急行形電車に近いものでした。客室内の保温性を優先させるため、デッキ付としたためにこのような2ドアとなったのです。また、デッキも仕切りがあるなど、まさしく急行形電車の体裁でした。

 電装品も北海道の極寒に耐えうるものでした。特に北海道の雪は、本州のものと比べて湿り気が少なく、サラサラとした細かい粉雪です。主制御器など可動部や接点部(スイッチ)にこれが入り込むと、絶縁不良や凍結等によって故障を起こすので、可能な限り可動部が少ないものにしました。そのため、可動部や接点部のないサイリスタ位相制御が採用されるなど、本州以南で運用されている交直流電車とは大きくことなるものだったのです。

 もっとも、これだけ特殊な装備をもつ711系は、その製造費は高価になってしまうため、小樽−滝川間(後に旭川まで延伸)のすべての列車を電車に置き換えるなど、現実的ではありませんでした。また、当時は長距離を走破する普通列車も多くあり、小樽以西や旭川以東から乗り入れてくる客車列車も設定されていたので、これに対応できる電機も求められたのです。

 こうしたことを背景に、国鉄は北海道専用の交流電機も開発しました。

 

《次回へつづく》

 

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