旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

7年前の今日、私が体験したこと ~東日本大震災の日に寄せて~【2】

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 即席の放送設備はできましたが、肝心な帰宅方法は決めかねていました。計画通りに帰宅をするには、電子メールを流さなければなりません。
 私はその話合いに参加しながら、一方では情報収集をするために、携帯電話のニュースを見ていました。震源地は三陸沖で、最大震度は7強か・・・!?
 ふとそのニュースを見ながら違和感を感じたのです。
 電話は携帯電話も固定電話もつながりません。正確には「通話はできない」状態だったのですが、ネット通信は難なくできています。そう、携帯電話の通話とネットは回線が異なることを思い出したのです。
 ノートパソコンにはバッテリーがあるので、当面はその電力で使うことができます。そして、携帯電話のネット回線は特に輻輳することなく使えているので、ノートパソコンに携帯電話をつなげば、停電してないときと同じようにインターネットが使えるのです。あとは、メールを送るサーバーが停電でダウンしてなければ問題ありませんが、こればかりは手許にないので分かりません。ですが、停電したとしても、そうした設備には非常用のバッテリー電源か発電装置があるので何とかなるでしょう。ただし、それも時間の問題です。
 私はすぐに、計画通りに電子メールを配信する提案をします。
 さすがに停電なのでそんなことはできないと、上司に言われますが、私は携帯電話のネット回線とノートパソコンを使えば、電子メールの配信ができる可能性があることを話しました。
 上司や先輩は目を丸くしましたが、とにかく試す価値はあると話しました。
 そして、すぐに準備を進めると、私の目論み通りにインターネットは使えました。あとはメールを送るためのサーバーの問題です。すぐにブラウザで、メール配信のシステムの画面を呼び出すと、こちらも難なく使えました。
 こうして、手許にあるツールを組み合わせて、親御さんに知らせてある通りに子どもたちの帰宅は親御さんに直接引き渡すことを報せました。災害時ですので受信には時間はかかりますが、少なくとも確実にこの情報は伝えることができました。
 そのメールを見て、親御さんが続々と子どもたちを引き取りに来てくださいました。遠くにお勤めの親御さんは、徒歩で迎えに来ることもあるので、全員が一斉に帰ることはできませんが、それでも夕方までには20人ほどが残っているというほどになりました。

 夕方になり太陽も落ち始め、あたりは薄暗くなっていきます。
 停電なので明かりをつけることはできません。見慣れた町は、不気味なくらい闇に包まれようとしていました。
 帰宅することができない子どもたちがいるので、私たちには全員を帰すまで待機するように「命令」が出ていました。
 とにかく全員を無事に帰すというミッションを完遂するために、その時々の状況に応じて、私はあらゆる方法を考え実行に移していました。
 しかし、一方では気がかりなことがありました。
 それは、生き別れになった我が子のことです。隙間を見つけて安否を確かめると、あろうことかその日に限って海岸沿いの水族館に遊びに行っていたのでした。そして、その水族館がある地域には大津波警報が出されていたのです。
 さすがに生きた心地がしませんでした。
 断続的に入ってくる情報では、東北地方の太平洋側には巨大な津波が押し寄せてきて、甚大な被害が出ているといっています。あれだけの強い揺れの地震ですから、いくら震源から離れていたとはいえ、海岸沿いに大きな津波がこない保証はどこにもありません。
 そして避難するにしても、ただでさえ渋滞しやすい道路があり、高台といっても海岸から数キロも離れたところにしかないことを知っていたので、そこへ避難する途中に津波がやって来たらかと思うと、いても立ってもいられませんでした。
 できることなら、いま、この仕事を放り出して助けに向かいたい。
 ですが現実はそうもいきませんでした。
 とにかく早く海岸沿いから離れ、高台のある方へと避難するようにメールで伝えると、私は幼き我が子の無事を祈りながら、目の前のことに集中しました。

 21時46分。地震発生からちょうど7時間が経って、最後の子どもが親御さんに引き取られて帰宅しました。それから10分ぐらい経ってから停電も復旧し、暗闇に包まれていた町に明かりが戻ってきました。
 23時頃には、海岸沿いにいた我が子は帰宅途中で、既に内陸部にいるとの連絡が来ました。

 私は、計画にはない避難と引き渡しを終え、親御さんに無事に子どもたちを帰すという最大のミッションを完遂することができました。
 しかし、2011年3月11日、あの日経験したことは危機管理主任として大きな学びがあったと思います。これまでいろいろな仕事をしてきましたが、それらの経験が大いに活かされ役立ったと思います。
 危機管理計画は、最悪の最悪を想定して計画を立てておかなければなりませんし、それを異常時に側実行できるようにしなければなりません。尊い命が失われて、「想定外でした」では済まされません。
 その一方で、目の前にいる子どもたちの生命を守るべく必死になりながら、海岸沿いで津波の危機にさらされている幼い我が子を助けることができない無力感に苛まされました。このことは、7年経った今でも思い出され、時として私を苦しめることがあります。

 あれから7年が経ちました。いえ、7年しか経っていません。
 残念なことに、「熱さ過ぎれば喉元忘れず」という言葉の通り、私が住む地域や勤める職場では、あの震災で経験したことが役立っているとは思えないことが多々あります。むしろ、風化していっていると感じています。
 防災計画や危機管理計画は、事前に立てておくことはもちろんですが、その中身はあらゆる観点から検討し綿密に組まれることが要求されます。しかし、現実には現場任せの抜け穴だらけの計画が組まれているだけで、再びあのような災害がやって来たら、再び同様の混乱を起こすのではないかと危惧しています。
 実際、避難訓練は年中行事のように形骸化しているところもあり、改善案を出してもそれが反映されることが少ないのが現実です。その一例を挙げるとすれば、いまもなお防災頭巾を用いることがほとんどですが、落下したコンクリート片のようなものなど飛来落下物に対して防災頭巾はあまりに無力です。本来ならばヘルメットが効果的なのにもかかわらず、そうした改善の取り組みが為されていないのが現状です。
 願わくば今一度あの日に起きたことに立ち返り、尊い命を落とさずに済む効果的な対策が施されることを望んでやみません。

 末筆になりましたが、東日本大震災で亡くなられた方すべてに哀悼の意を表し、被災されたすべての方にお見舞いを申し上げます。また、被災地において救助活動や復興作業に携わったすべての人に敬意を表します。