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都心部を走る地下鉄の多くは、特別な事情がない限り地上の鉄道線へ直通運転をしています。
例えば、このブログでも取り上げた東京メトロ日比谷線は、東武鉄道伊勢崎線と相互に乗り入れています。また、かつては東急電鉄東横線とも乗り入れを行っていました。ですから、地下鉄のためにつくられた車輌も、自分のところだけではなく、他の鉄道線では地上を走ります。
まあ例外としては、同じ東京メトロの銀座線や丸ノ内線、都営大江戸線が挙げられます。前二者は集電方式が第三軌条で、車両規格も他の地上戦と異なるが故に、地下鉄単独となっています。大江戸線はいわゆる「ミニ地下鉄」と呼ばれ、建築限界も極端に異なるためです。
こうした事情がない限り、地下鉄は計画時から地上の鉄道線と直通運転をすることが前提とされることが多いです。
東京都交通局が運営する三田線も、計画時は他の鉄道線と直通運転をすることになっていました。その相手とは、東急電鉄と東武鉄道です。
東急電鉄とは、泉岳寺から五反田を経て、池上線と直通運転する計画でした。東武鉄道とは、東上線と直通運転することになっていたそうです。
もちろん、こうした計画が具体的になると、乗り入れる車両についても事業者同士で協議・調整をします。そして、車両規格ができたところで協定を結び、これに沿った乗り入れ用の車両をつくるのです。
そして、東京都はこの規格に沿った三田線用の車両として、6000形をつくりました。
ところが、三田線と東武・東急との乗り入れ計画はご破算となってしまいます。理由はいろいろですが、東急は三田線と乗り入れるために泉岳寺駅から五反田駅までは地下に新線をを建設しなければなりませんでした。
地下への鉄道建設は莫大な費用がかかりますが、距離が短いことで運賃収入はあまり見込めず、建設したところで利用者の時間的な差は限られていることなどを理由に、三田線との直通計画を中止して銀座線との乗り入れを目指しました。
一方の東武にとって三田線との乗り入れはうま味が少なく、東上線のターミナルである池袋へやってくる乗客が減り、その結果系列である東武百貨店への集客に影響し、ひいては池袋地区の開発に資さないということでした。
この事態に、事業主体である東京都交通局は「最初の話とは違うではないか」とばかりに、両者に対して抗議したといいます。いずれも「儲かりそうもない」からとばかりに、自社の都合で白紙にされたのです。
しかも悪いことに、既に建設工事に着手するだんかいにきての計画中止だったので、都民の税金を投じて建設する都の立場としては、そのような理由で「建設を止めます」なんてことはできなかったのです。
そのような最中、三田線で使用される電車も発注がされていたのでしょう。1968年の開業時までに用意された6000形は、本来であれば東武・東急の両社線にも顔を筈でしたが、残念ながら地下鉄に『封じ込め』られた形になってしまいます。
三田線用として製造された6000形は、既にご破算になったとはいえ、東武・東急との乗り入れ協定に基づいて設計されていました。そのために、前面の列車種別・運行番号幕窓の上には、将来急行などの優等列車でも運用できるように通過標識灯が設置されていました。
全体的には角張ったデザインで、前面も直線的で角が目立つものです。
運転台は地上線を走行中に踏切事故などに遭ったときに備えた高運転台構造にしたり、先頭車に装備される警音器は編成の両端で音色を違うものにするなど、乗り入れ協定の規格に沿った構造・装備とされました。
車体はセミステンレス構造で、側面にはコルゲート板が取り付けられ、この次代にステンレス鋼をを用いた車両では一般的なデザインで、同時期に登場したステンレス車両とに引けをとらないものでした。
6000形は1968年に開通した三田線で4両編成を組んで走り始めます。その後、三田線が延伸していくに従って増備を続け、最終的には6両編成28本、合計で168両がつくられました。しかし、計画にも合ったように、6000形は東武・東急の両社へ乗り入れる規格に沿ってつくられたにもかかわらず、三田線に封じ込められたままとなり、三田-西高島平間を往復する仕事をこなし続けました。
筆者がこの6000形に乗ったのはたったの1回。小学生の頃、当時大手町にあった逓信総合博物館へ行くため、京急線、浅草線と乗り換えて乗ったのでした。ただ、この当時は冷房装置などなく、初夏の暑い日だったので窓は全開。走る度にトンネル内に響き渡る走行音がひどく、何ともうるさい電車だったとしか覚えていません。
まあ、地下鉄線は基本的にスラブ軌道など、コンクリート道床なので、レールのジョイント音を吸収してくれるバラストがないので仕方ありませんが。
そんな6000形に他社線へ乗り入れる計画が出たのは1985年の、運輸省の諮問機関である運輸政策審議会の答申に、目黒駅を経由し目蒲線との直通運転が明記されました。そして、かつては直通運転の計画を反故にされた東急と、同じく目蒲線へ乗り入れる営団との三者で乗り入れをすることになったのです。
当時三田線を走っていたのは6000形だけで、いよいよその本領発揮となるかに見えました。しかし、1968年に登場した初期車は既に老朽がが進んでいたので、後継となる6300形によって置き換えられることになり、後期車だけが目蒲線へ乗り入れる計画になりました。
そしていよいよ6000形が地上の、それも他社線で走る姿が見られるかと思いきや、乗り入れ先である目蒲線改め目黒線と、同じく目黒線へ乗り入れる南北線はATOによる自動運転となることがきまり、6000形はそれに対応することができても、改造費が6300形の新造費よりも高くなることから断念され、結局はその生涯を三田線に封じ込められたままで終わってしまいました。
三田線から6000形が1999年で、31年間を三田線で過ごしたのでした。
しかし、三田線を御役御免になった6000形を、国内では秩父鉄道と熊本電気鉄道が購入し、数こそは少ないものの2020年の現在も走り続けています。
これらの鉄道会社ではとても重宝する存在のようで、特にステンレス鋼を外板に使っているおかげで、塗装を省略できるので運用コストを軽減できるメリットを生み出しました。
また、制御装置は抵抗制御なので消費電力の軽減はできませんが、古くからある制御+直巻電動機という組み合わせのおかげで、検修では従来の車両とさほど変わらずこれまで培ってきた技術が役立っていることが想像できます。
いずれにしても、直通運転という目的を果たせず、ずっと封じ込められたままだったのが、地方の鉄道へ渡った先ではとても重宝されたのは、不遇であった6000形にとってせめてもの救いなのかも知れません。
ちなみに、秩父鉄道に渡った6000形は、形式名こそ5000系と変わりましたが、その姿はほぼ三田線時代のまま、青色の帯を巻いています。そして、「あの」東急電鉄からやって来た8090系や8500系とともに、自然豊かな秩父路を駆け抜けているのです。
今回は少し長文になりましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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