旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

あれから8年 東日本大震災の日によせて

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 今年も3月11日になりました。

 8年前の2011年3月11日14時46分、東北地方の太平洋沖を震源とする巨大地震が発生し、想像を遙かに超える大きな被害をもたらしました。そして、この地震による巨大な津波は東北地方の沿岸部の町を飲み込み、膨大な数の犠牲者を出しました。

 いま思い返すと、この当時、想像を絶する悲惨な状況に「想定外だった」という言い訳がなされていました。しかし、こうした自然災害はいつも私たち人類の想像を遙かに超える猛威を振るい、そして未曾有の被害をもたらしてきました。

 昨年(2018年)も災害の多い年でした。

 中国地方を襲った豪雨災害では、多くの人の家を水浸しにしただけなく、猛烈な雨とそれによる浸水によって、またそれによる土砂災害などによって、多くの人の命が失われました。
 これもまた、私たち人類の想像を超える、自然が猛威を振るった結果でした。

 日本は地震大国ともいわれています。これまでの歴史の中で、数多くの大きな震災を経験してきました。
 また、台風などの襲来によって、多くの犠牲を伴った歴史をもちます。

 そうした災害の歴史と、その教訓と経験を得ているにもかかわらず、どこか他人事のように捉えている節があると思うことがあります。それは仕事の中であったり、あるいは私生活の中であったり、と。

 

 あの日、私は勤め先の防災担当者でした。
 日頃から大地震や台風などで危険な状況が起きたときに、その対応方法や避難計画などを作成していました。年に一度の防災訓練で改善点が出た時には、それまで以上に厳しい計画を立てて提案しました(具体的にはお話できませんが)。
 しかし、私の提案に対して「そんなに厳しい計画が必要なのか。そもそも、大地震がくることがあるのか」という反対の意見が出されました。私は10ある提案のうち、すべてを見直すのではなく、半分でも成立させようと考え折り合いを付けました。

 しかし、それから半年後に思いっきり後悔しました。

 3月11日、あの巨大地震が襲ってきたのでした。
 私の勤めている地域は大きく揺れ、津波はありませんでしたが、町全体が停電になってしまいました。社会全体が機能不全に陥り、大混乱が起きました。

 ですが、私は防災担当者として、その時できうる限りのことを考え、そして実行に移しました。
 停電になり放送設備が使えないと知るや、震度5強の強い揺れの中を、トラメガを片手に階段を駆け上がり、授業中の教室に向かって揺れが収まるまでの行動を指示しました。
 外に避難したあとは、こちらの指示を明確に伝えるために、ポータブルの放送機器にありったけの乾電池を詰め込み、1本のマイクで2台のアンプスピーカーから流れるように設定を変えて、簡易の放送設備をつくりました。
 親御さんへの連絡は、職員室のデスクにあるノートパソコンを活用し、内規に抵触することを承知で、自分の携帯電話をつないでメールを送信しました。携帯電話の通話はできなくても、パケット通信は別回線で生きていたことから着想を得ての措置でした。

 いずれも、私が出した計画に則りながら、しかし、インフラが使えなくなってしまっているので、その場での臨機応変な対応をしたのです。

 言い換えれば、巨大地震による停電などのインフラの寸断は「想定外」になってしまったのです。ですが、「想定外なのでできませんでした」などという言い訳はしませんでした。

「私の想定が甘かったので、計画を立てていませんでした」

 というのが、私の答えでした。

 自然災害はいつやってくるか分かりません。そして、一度災害が襲ってくると、それはどれだけ人間の英知を結集して想定しても、結局はその想定をはるかに超えて襲ってくるのです。

 自然災害の対策には「絶対」はありません。
 最悪の最悪を想定したシナリオで、準備を整えておくしかない。そして、その準備は常にアップデートしていかなければならない。それが、3.11のあの日から学んだことでした。

 

 つたないお話を最後までお読みいただきありがとうございました。
 私自身、それほど大きな被害を受けてはいませんが、8年経ったいまでも、地震が起きたときの光景や、恐怖に怯える幼い子たちの救いを求める表情、そして誰ひとり負傷することなく無事に親御さんへお返しするという長いミッションをしたことを、鮮明に思い返します。

 末筆になりましたが、この地震尊い命を失われたすべての方々に心から哀悼の意を表するとともに、ご遺族の方に心からのお悔やみを申し上げます。
 また、この地震による被害を受けられた方にお見舞いを申し上げます。