旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 「特急銀座」と呼ばれた1984年頃の上野駅

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 上野駅といえば、かつては東北地方や北陸地方へと向かう特急列車や急行列車が頻繁に発着するターミナル駅でした。中でも上野ー青森間を結んだ特急「はつかり」は、昼行で11往復も運転されており、加えて寝台特急はくつる」をはじめ、常磐線経由の「みちのく」や奥羽線経由の「あけぼの」など、特急列車が走っていない時間がないのではと思うほど、多数の列車が上野駅に発着していました。

 しかし、1982年の東北新幹線の開業で、その多くの列車は廃止または減便され、例え残ったとしても運転区間を短縮したり、急行であれば快速への格下げが行われたりと、まさに「天変地異」でも起きたかのように大改革が行われたのでした。

 新幹線開業後に残ったのは、北陸方面の列車と常磐線の列車がほとんどで、東北線優等列車は上野-山形間の「やまばと」と上野ー秋田間の「つばさ」で、しかもその運転本数は減便ないし運転区間の短縮というかたちで残っていたのでした。

 一方、新幹線の開業に直接影響を受けなかったのが、北陸方面の「白山」と常磐線の「ひたち」でした。

 

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489系「白山」と485系「ひたち」 1984年11月頃 上野駅

 

 写真をご覧になってもお分かりになるように、どちらも485系で運転がされていました。「ひたち」が停車しているのは恐らく17番線で、ホームには仮囲いとその奥には防音シートで覆われていることから、既にこの頃には新幹線の上の開業を目指して工事が行われていたのでしょう。

 ここに停車する「白山」と「ひたち」は、どちらも交直流特急形電車で、一見すると同じに見えます。「白山」は高崎から信越本線を走り、長野、直江津を経て北陸本線へと入り、金沢まで472.7kmもの長距離を走りました。信越本線は途中、国鉄でも最も勾配がきつい碓氷峠を通過するため、補助機関車であるEF63と協調運転をしていました。そのため、一見して同じに見える車両ですが、EF63と協調運転が可能な金沢運転所所属の489系が宛がわれていました。

 一方、「ひたち」は貫通扉のないクハ481です。300番代か1000番代のどちらかだとは思われますが、残念ながら手許に資料もなく、この頃は「特急の写真を撮る!」といった感覚しかなかったので、詳細な記録もとっていないため分かりません。が、勝田電車区所属の485系が宛がわれていたことは確かです。あくまで推測ですが、常磐線は比較的温暖であることから300番代だと思われます。

 「ひたち」は常磐線を経由して仙台までの間を結んでいました。いわきや原ノ町までの区間運転の列車も設定されていたようですが、いずれにしても常磐線沿線の都市を結ぶ重要な列車だったことは間違いないでしょう。

 どちらも東北新幹線の開業では影響を受けなかった列車で、国鉄の分割民営化後も従前とほぼ同様に、首都圏と北陸、そして常磐線沿線を結ぶ特急として活躍を続けていました。

 しかし、どちらの列車も「運命」に翻弄されていきます。

 「白山」は北1997年の陸新幹線の長野開業によって、信越本線の横川-軽井沢間の碓氷峠区間が廃止になり、並行在来線となった軽井沢-篠ノ井間が第三セクターしなの鉄道へ移管されてしまいます。そのため、「白山」はその役目を上越新幹線と越後湯沢で接続する「はくたか」に譲って1953年から44年間の歴史に幕を閉じました。

 とはいえ、新幹線開業によって在来線の優等列車が廃止になるのはよくあることですが、直接その役目を担うべき北陸新幹線は、この時点では長野までの先行開業で、長野から直江津までの間は一時期、優等列車が走らないという異例ともいえる状態が続きました。これが解消するのは、それから17年後の金沢開業まで待たねばなりませんでした。

 一方、「ひたち」は民営化後にJR東日本が輸送力の改善に力を入れた列車でした。常磐線には新幹線の計画もなく、在来線特急である「ひたち」は沿線にとって重要な存在です。そのスピードアップとサービス改善は、JR東日本にとって経営上の課題でもあったといます。

 「スーパーひたち」の設定によるスピードアップや、「フレッシュひたち」によるサービス改善は功を奏し、利用者に好評をもって迎えられるとともに、利用者の増加も実現できました。

 ところが、2011年3月11日に起きた東日本大震災は、常磐線と沿線の町を津波が襲い、ことごとく破壊してしまったのです。走行する常磐線の列車も被害を受けましたが、乗客乗員に人的な被害がなかったのが不幸中の幸いでした。しかし、同じ常磐線を走行していた貨物列車は、未曾有の津波が襲いかかったため、コンテナ貨車と積載していたコンテナは全て津波に流され、重量が重い機関車(ED75 1039)だけが残されるという被害を受けました。

 列車だけではなく駅や軌道といった施設は壊滅的な被害を受けてしまい、その復旧には相当な困難が予想されました。そこへ、福島第一原子力発電所の事故も起き、常磐線の一部区間放射能汚染による警戒区域に指定され、広野-磐城太田間が立入禁止になり復旧作業どころではなくなりました。

 当然、「ひたち」も常磐線が復旧するまでは上野―いわき間といわき-仙台間に分離して運転を再開していきます。そして、全線が完全に復旧するのは震災発生から10年近くが経った2020年3月14日のダイヤ改正で、「ひたち」もようやく本来の姿に戻っていったのでした。

 今日、写真のように上野駅には「白山」のような金沢方面へ向かう特急列車はなく、「ひたち」は上野発着の列車も残ってはいるものの、東京-上野ラインの開業によってその多くは始発駅を品川に変えました。

 特急銀座とも呼ばれた上野駅は、かつてのように長距離列車を利用する旅行客で賑わい、ひっきりなしに発着する列車に乗り混んでいく人も少なくなってしまいました。北の玄関口、ターミナルとも呼ばれた上野駅は既に過去の光景になってしまったようです。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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