旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 「はやぶさ」、それはかつて寝台特急だった【中編2】

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前回のつづきから

blog.railroad-traveler.info

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 「みずほ」が1972年に14系へと置き換えられ、続いて「はやぶさ」が1974年に24計24形へと置き換えられました。どちらも寝台幅は700mmへと一気に250mmも拡大され、接客サービスの面で大幅に改善されました。ただし、寝台幅が広がるということは、その分だけ寝台区画を減らさざるを得ません。できれば、多くの乗客を乗せて運ぶことで、運賃や料金収入を得たいところなのですが、こればかりはいかん点しがたいものがあったようです。そのため、三段式寝台はそのままとなりましたが、こちらも天地方向の高さは狭く、勢いよく起き上がれば頭を打ちかねない狭さでした。欧米の鉄道に比べて車体サイズが小さい日本の鉄道では、寝台車の設計にも苦心していたことが窺われました。

 「はやぶさ」の24計24形による運転は僅か1年半ほどで終わり、1976年には24系25形へと置き換えられます。24系25形はB寝台を三段式から二段式へと改め、さらなる居城性の向上を図りました。また、24系24形ではA寝台が開放式だったのに対し、24系25形では個室寝台が設定されました。20系時代に個室寝台から開放式寝台に変えられてから、4年ほどの空白期間を経て「はやぶさ」に個室寝台が復活したのです。

 1976年のダイヤ改正によって24系25形で運転されるようになってから、「はやぶさ」はその終焉近くまで車両の変更はありませんでした。

 とはいえ、この時期からブルートレインブームが湧き起こっていましたが、それは直接、寝台特急の利用につながるというものではなく、新幹線の博多開業と、航空機の大衆化などにより利用者数は減少の一途を辿り始めていた時期でもあったのです。そのため、高い寝台料金を払い、ヘタなビジネスホテルよりも居住性に劣る列車で、長時間をかけて旅行をする必要性も徐々に薄れていったのでしょう。そうした中で、居住性を少しでも上げて利用者を呼び戻そうとするべく登場したのが二段式寝台を備えた24系25形でしたが、寝台を二段式にした分だけ定員が減り、満席だったとしても三段式に比べれば収入が減るのは当然です。国鉄は少しでも収入を確保しようと、二段式寝台のための寝台料金を設定しました。しかし、三段式のそれとは比べ、二段式は少し高めの料金設定だったために、実質料金の値上げとも捉えられたのでしょう、利用者を呼び戻すには至りませんでした。

 

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©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で引用

 長距離、長時間、それも夜行で列車が走るということは、それを動かす乗務員はもちろん、停車ないし通過する駅にも駅員を配置しなければなりません。特に信号扱をする「運転取扱駅」では輸送掛または信号掛を勤務させねばならず、運用コストもかかってしまうのが実情です。

 できれば夜行列車の運転をやめてコスト軽減をしたかったのが国鉄の本音だったの絵はないかと想像できますが、国の公共交通機関であるがために収益が上がらないからという理由では、こうした列車を即座に廃止することは叶いませんでした。とりわけ、夜行列車には相応の歴史と運転を続ける意義が大きかったため、そう易々と削減というわけにはいかなかったようです。

 国鉄もただただ手をこまねいていたのではなく、1985年には乗客の誰もが利用できるロビーラウンジを備えたオハ24形700番代「ロビーカー」が連結されました。たった1両を増結しただけだったのですが、編成全体の牽引定数が増加したため、それまで先頭に立っていたEF65ではパワー不足となったため、牽引機をEF66へと替えました。もっとも、強力なパワーをもつEF66に替わっても、所要時間に大きな変化はなく、ファンが喜んだだけでした。

 1987年の国鉄分割民営化を目前に、「はやぶさ」で使用されていた客車は、長年拠点としていた品川客車区→品川運転所から、遠く九州の鹿児島運転所と熊本客車区へと移管されました。これは、民営化後に九州島内へ乗り入れる寝台特急の一部を九州会社が受け持つことになっていたためでした。

 

《次回へつづく》