旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 「はやぶさ」、それはかつて寝台特急だった【前編】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 「はやぶさ」という列車といえば、何を思い浮かべるでしょうか。

 やはり、東北・北海道新幹線を320km/hで駆け抜け、東京と新函館北斗間を結ぶ「はやぶさ」というのが現在のお決まりだと思います。筆者の娘(まだ3歳)もグリーンとホワイトに塗られた、鋭い先頭形状をもつE5系を見ると、「しんかんせ~ん」と大はしゃぎで喜んでいます。まあ、これが「はやぶさ」という愛称の列車だということは理解しなくても、やはり小さな子どもにも人気の新幹線なので、恐らく小さい子どもたちにとっては「はやぶさ」は新幹線の列車なのかも知れません。

 しかし、この「はやぶさ」が、東京と西鹿児島(現在の鹿児島中央)を鹿児島本線経由で結んでいた寝台特急の一つであったということを知るのは、恐らくは筆者と同年代以上の方が、熱心な愛好家の方々でしょう。

 かつては、東京駅から東海道・山陽・鹿児島本線をひたすら走り、約1,519kmをほぼ一日かけて結んでいたという、我が国でも最も長い距離を走る寝台特急の一つであり、一時期は高い人気を誇りなかなか切符が取れないという列車でした。

 かくいう筆者も、いずれこの日本で一番長い距離を走破する寝台特急に乗ってみたいと、幼心に思い描いたものでした。なにしろ、寝台特急というのは「高嶺の花」という存在でしたし、なにより日常からかけ離れた空間が車内に広がっていると思うと、ワクワクして仕方がなかったのです。

 それが高校を卒業し、鉄道マンとして就職すると、全区間とはいかないまでも多くの夜行列車に乗る機会を得て、それはもう嬉しくて小躍りまでしたほどでした。もっとも、筆者が乗る機会を得た1990年代は、夜行列車は既に凋落の一途を辿り始めていたので、切符を手に入れるのには思ったほど苦労がありませんでした。

 もちろん、「はやぶさ」も何度となく乗りました。中でも一番印象に残っているのは、西鹿児島から乗車して、横浜まで乗り通したことです。まだ太陽が沈まないうちに西鹿児島を発車した列車は、不知火海沿いに北上しながら太陽の光をその青い車体に浴び続けていました。そして、門司勤務時代に慣れ親しんだ駅名が聞こえる頃には、ようやく太陽も沈み始めて福岡の街には明かりが灯っていました。

 門司では関門トンネルを超えるための機関車の交換作業を見守り、そのハンドルを握っていたのは筆者がかつて勤務していた門司機関区の機関士で、身に纏う制服は筆者と同じ少し鮮やかにも感じるブルーのシャツ。もしかしたら知っている人ではないかと見てみると、よく知らない人だったでした。まあ、機関士は検修職員よりも多くいるので、知らない人の方が多くて当たり前だったのですが。

 

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1987年5月頃 浜松町ー田町 筆者撮影

 

 下関からは瀬戸内沿いに東へと進んでいきますが、もうその頃には日もすっかり沈んで夜のとばりが訪れていました。そんな中を、特急とはいいながらもさほど速くないスピードで、淡々と走り続けていた・・・「はやぶさ」の旅は幼い頃に思い描いていたものとは少しばかり違っていて、なんとも単調な印象でした。

 もっと、列車そのものが、いえ、寝台特急自体が過去のものとなってしまった今となっては、そんな単調な旅もまたいい思い出になっています。

 ところで、この列車は最初から「はやぶさ」という愛称を付けられていたわけではありません。

 《次回へつづく》