旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第一章・その3「引っ越し先は鉄道の町」

◆引っ越し先は鉄道の町
 小学校二年生の時に、私は同じ市内の別の街へと引っ越した。もちろん、小学校も転校することになる。まあ好きで引っ越しする人はそうそういないと思うが、私もこの引っ越しだけは今も嫌な思いしかない。
 転校先の小学校で勉強をしていると、やたらと「ソウシャジョウ」とか「線路」とかいう言葉が飛び交っていた。いったい何のことなのかと、最初に仲良くなったK君に聞いてみると、貨車がいっぱいあるところだと教えてくれた。
 ナニ、貨車がいっぱい?
 そうなると、鉄道少年だった私の心はいても立ってもいられない。
 さっそく、放課後に遊ぶ約束をして、その貨車がいっぱいある「ソウシャジョウ」なるものを見られるところに連れて行ってもらうことに。その日の授業など身に入らず、とにかく放課後になってほしいと願ってばかりいたものだ。担任の先生から見たら、なんと嫌な子どもだっただろう。
 実はこのK君。お父さんが国鉄職員で、その住まいは国鉄の官舎(今でいう社宅)。教えられたとおりに家に行くと、白い三階建の同じ建物が並んだ団地で、そこの看板には「国鉄東京南鉄道管理局 南加瀬官舎」と看板が。
 「国鉄」の二文字を見ただけで興奮するのに、友だちのK君のお父さんは国鉄の鉄道マン!とは何とも羨ましい限り。そしてK君に案内されて、近くの丘の上に登ると、そこからは広大な敷地にたくさんの貨車がところ狭しとならび、さらには青い車体の機関車も停まっている姿が見えた。
 引っ越し先は何と新鶴見操車場の近くの町だったのだ。1979(昭和54)年当時、国鉄は莫大な赤字を抱えながらも貨物輸送はまだまだ旧来のヤード継走方式。前年には俗に言う「ゴーサントオ」と呼ばれる大規模なダイヤ改正があり、貨物列車は大幅に削減されたものの操車場はまだまだ機能していた。

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 丘の上から眺める新鶴見操車場と新鶴見機関区はまさに壮観そのもの。幼稚園の頃に忍び込んだ梶ヶ谷貨物ターミナル駅とは比べものにならないくらい、貨車や機関車で溢れていたものだから、鉄道少年の私にすれば毎日でもここへ来てじっと眺めていたい気もちになった。
 それからというもの、時間を見つけては自転車で線路際まで行っては、貨車の入換や時折やってくる貨物列車を眺めていた。
 その貨物列車を牽く機関車は、青い機関車がほとんどで、時折茶色の旧型電機の姿が見られる程度。しかも、列車の本数はそれほど多くなく、1時間に1本来ればいいくらいだった。それに、当時はほぼすべての貨物列車が新鶴見操車場へと入っていくので、スピードは出てもせいぜい45キロほどだからじっくりと観察できた。
 その中に、見たことのある機関車がやって来て、私のそれまでの「常識」は簡単に打ち砕かれた。
 それは、黒い二軸の有蓋貨車を多数連ねた列車の先頭に、そのブルートレインを牽いているはずのEF65形の姿だった。しかも500番台といえば、塗り分けも他の一般機とは違い特急色。なぜ、こんな地味な貨物の先頭に立っているのか?という疑問で頭がいっぱいになり、これ以来、私は機関車と貨車の研究をするようになっていった。