旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・命を預かる役目・列車見張【6】

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 このシリーズも書き始めて1年以上が経ちましたが、最後に記事を公開してからずいぶんと時間が経ってしまいました。

 楽しみにして頂いていた皆さま、ほんとうに申し訳ありません。

 これからも、本業や家族サービスの合間を見ての執筆と公開になりますが、お付き合いいただけると幸いです。


 現場での作業より、信号扱所に上がって列車見張の業務が多くなると、それはそれでよいこともたくさんあった。何しろ自分が務める区所以外にも知り合いが増えるし、同じ会社だけでなく旅客会社にも顔見知りが増えてくる。

 あまり大きな声では言えないが、真冬の寒い日の作業となれば外にいれば言葉通り芯まで冷え切ってしまう。もちろん、私自身はそうした仕事の大切さは十分に理解していたし、そういう中で安全輸送に携われるという誇りみたいのもあった。とはいっても、身体は正直だから、防寒服を着込んだところで寒いのは寒い。

 その点、列車見張を言い渡されると、暖房の効いた信号扱所に上がることができるので、ちょっと得した気分になれた。

 新鶴見機関区の信号扱所に顔見知りになった輸送係の先輩がいて、その先輩がいるときにお邪魔すると話し相手が来てくれたとばかりに歓迎され、必ずといっていいほど熱いコーヒーをご馳走になったものだった。もちろん、このコーヒーは会社からの支給品などではなく、先輩方が給料から出し合ったポケットマネーのもの。だから、じっくり味わいながら飲まなければ、大変失礼に当たると思ったものだ。

 新鶴見機関区の信号扱所は、大雑把に言えば機関区構内の入換作業における運転取扱いをする。隣の信号場で列車から切り離されて入区する機関車を、次の運用や検査などに備えて適切な線路へ導いていく。逆に出区する機関車があれば、同じく適切な進路を開通させて送り出す。どちらにしても、東海道~東北・高崎・上越・中央線を往来する貨物列車は、ほとんどすべてが新鶴見信号場に停車し、そしてここで機関車を付け替えている、鉄道貨物の要衝ともいえる。そんな信号場の隣にある機関区だから、機関車の出入りも多く、入れ換えも激しかった。

ほとんどはこのように信号場の出入なのだが、稀に鶴見方にある「割畑」と呼ばれる小さな信号場への単機の入出区もあった。

f:id:norichika583:20190824144157j:plain国鉄の分割民営化直前の頃の新鶴見機関区。現在の新鶴見信号場にあたる操車場到着線から機関区へ入区してきたEF65 541は、ステップに操車掛がぶら下がり操車誘導をされて構内を走る。この後に就く運用によって適切な線路へ機関車を留置させるのが操車掛の役割で、その計画に従って信号機などを操作して安全に進路を構成するのが信号掛の仕事だった。そして、信号通信区(民営化後、貨物会社は電気区)はそれら信号機器が常に正常に動作するように保守管理をする。そのため、作業中はこの写真のように車両が入ってこないように、信号扱所と綿密な打ち合わせをして、安全確保をするのが列車見張の役割だった。この写真では、到着線から入区線に入ってきて、横須賀線新川崎駅側にある東機待線に誘導されているので、この後は再び東海道本線筋の列車を牽くと思われる。ちなみに、手前側の線路は西機待線に誘導する。(1986年8月頃 新鶴見機関区 筆者撮影)

 ここで少し新鶴見信号場と新鶴見機関区のことについて触れておこう。

 今日、これらJR貨物の施設がある地には、かつて新鶴見操車場(機関区はその中にあった)と呼ばれる巨大な操車場があった。

新鶴見は日本の三大操車場とも呼ばれるほど広大な敷地あり、鉄道貨物がまだヤード継走方式だった頃、日本の太平洋側を行き来する貨物列車は必ずここに立ち寄り、方面別の列車に仕立て直されて発送されていた。その操車場ができたのは1929年。当時は東洋一などとも呼ばれ、とにかく広大な敷地に仕訳線や着発線、機関区や貨車区などの鉄道施設がびっしりと配置されていた。

 それだけ広大な操車場と鉄道施設群なので、この地で働く国鉄職員の数は5000人ともいわれていた。そのため、操車場の両側となる沿線には横浜市鶴見区から川崎市幸区に欠けて、いくつもの国鉄官舎も建設され、ここに国鉄の職員とその家族が数多く生活をするという、いわゆる「鉄道の町」として発展していた。かくいう私が通っていた小学校にも、この国鉄官舎に住む子どもが多数通っていて、中には友人となった子もいた。

話は逸れてしまったが、これだけ広大な敷地に数多くの鉄道施設が配置されれば、信号扱所も一か所では捌ききれなかった。

 そこで、操車場をいくつかに分けて、それぞれの信号扱所が受け持つことになった。

 北から「御幸」「宮前」「割畑」「前袋上り」「前袋下り」と名付けられ、さらにハンプの扱所もあったのだから、合計で6か所あったと聞いている。(もしかすると、もっとあったかも知れないが)

 くる日もくる日も、各地からここに貨物列車がやってきては、列車の組成を解かれ、ハンプから滑り降りる貨車たちは再び目的地へ向かう列車に仕立てられて、各地へと旅立っていく。そんな作業が繰り返されていた。

 ところが、1984年のダイヤ改正で操車場は廃止となり機能を停止、多くの信号扱所も用途がなくなり機能を止めてしまった。しかし、鉄道貨物は輸送方式を今日のような拠点間輸送に変えて残った。

 しかし、いくら直行する貨物列車が主流になったといっても、平坦な東海道本線と勾配の多い中央・高崎・上越線では使う機関車も異なった。そこで、東海道から北へ向かう貨物列車は、武蔵野線を経由することになる。そうするとすべての貨物列車は新鶴見を経由するので、幾つかの線路と機関区だけを残すことになった。それが、今日の新鶴見信号場と新鶴見機関区である。

 そして、いくつもあった信号扱所も必要なものだけ機能を残し、今日に至っている。

 前回までは

blog.railroad-traveler.info

 その新鶴見機関区の信号扱所に上がると、最初にするのがその時点での列車の運転状況だった。

 特に貨物列車は長距離を走るのが多い。西は九州・福岡貨物ターミナル駅から北は北海道・札幌貨物ターミナル駅までの間を発着する長距離列車が多いので、この作業は絶対に欠かせなかった。近辺を走る列車が定時で運転していても、遠くの地で輸送障害に遭い遅れが生じた列車があることが多い。そして、大幅に遅れて新鶴見信号場に到着した列車があれば、当然だが機関区へ入区する機関車も遅れる。

 運転状況によっては、作業そのものを見合わせることもあった。

 信号扱所の輸送係から状況を聞き、作業に支障があるかないかの判断をするのも列車見張に指定された職員の仕事だ。だから、私は弱冠20歳そこそこで、こうした業務を任され、作業の可否を判断しなければならなかった。

「主任さん、本日の運転状況はマル。作業への支障なしです~」

と、持っているトランシーバーで連絡をすれば、現場で待機している主任をはじめとした先輩や同僚たちは、すぐに作業を始める。

 ところが、そうでないときは、

「え~東海道と武蔵野は概ね定時なんですが、関西方面からくる列車にいくつか遅れがあります」

 という具合に報告をする。

 すると、それを聞いた主任や先輩はこう返してくる。

「ナベちゃん、そうすると、ここ(作業をする予定の転轍機など)に入換はくるのか?」

 現場で準備をしている先輩たちは、この日の作業が予定されている転轍機や線路を、一時的に使えなくなっても機関車や貨車の入換に支障がないかを心配するのだ。もしも作業中に入換の機関車や貨車がきてしまっては、それこそ大事(おおごと)だ。入換を止めてしまえば、その後の列車の出発などにも影響を出してしまう。そうなれば、運転事故として取り扱われ、区長だけでなく支社や旅客会社からもお叱りを頂戴する羽目になる。

 それならまだマシというもので、もっと恐ろしいのは作業中に機関車や貨車がやって来て、作業に気付かないか、あるいは気付くのが遅れたかで、先輩や同僚を跳ね飛ばしてしまう触車事故だ。「触車」なんて文字で書くとたいしたことないように見えるが、実際には車両に轢かれてしまう重大事故だ。ほとんどの場合、この手の事故に遭うと命を落としてしまう。運良く命が助かっても、片腕を失ったとか、両脚を切断したとかという重大な障害を負ってしまう。

 こんな事故が起きれば、当然見張り業務に就いている職員の責任だ。つまるところ、信号扱所に上がって列車の運行を確認した私の責任ということになる。

 だから、主任や先輩に聞かれても、すぐに返事はしなかった。いい加減な返事をしてはマズいので、信号扱をしている輸送係の先輩に必ず確かめるのだ。

 この確認も、ちょっと複雑だった。

 というのも、どの列車に遅れが出ているのか、そして信号場に到着して機関区に入区するのが何時何分かということから確かめる。

 例えば、今の時刻が10時15分だとしよう。本来なら、信号場に9時35分に到着している列車が、いまも遅れているとする。定時なら機関車も交換を終えて、既に入区しているのだが、遅れが出ているからいまだに機関車は入区していない。そして、その列車は120ほどの遅れで運転している。つまり、信号場には11時35分に到着の予定ということだ。

 こういう情報を得ると、次に予定している作業の所要時間と付き合わせてみる。これも簡単ではなく、例えば片開き分岐器の転轍機保全作業だとすると、最長でも1時間は見込まなければならない。これなら短い方で、これが両渡り分岐器やシーサスクロッシング分岐器の転轍機での作業となると、1時間ほどでは済まない場合もある。あるいはトロリー線の補修や点検作業だと、作業時間の見積も変わってくる。このように現場でどの作業が組まれているか、作業はどのように進めていき、所要時間は何分かかるか、ということを見張業務に就く職員は熟知していなければならなかった。

 そして、片開き分岐器の転轍機保全作業だとすると、約60分の作業時間を確保しなければならない。だから、10時15分から11時35分までの間合いが必要になるのだ。そして、120分遅れの列車が到着する前には作業が終わっていると見積もることができる。

「列車の到着は11時35分頃なので、いまから80分ほどの間合いが確保できます」

「それなら、作業は可能かな?」

「え~、この間合い時間なら作業可能と考えますが」

「了解~、じゃあ、信号さんには予定通り作業をするって伝えて」

 最終的には責任者である主任か指導職の先輩が判断をするのだが、列車の運転状況や遅延、そして作業に必要な間合いが取れるかどうかという状況を把握して知らせるのだから、もっとも神経を遣う事の一つだった。

 一度作業を開始する決定をすると、今度は信号扱所の輸送係にそのことを伝える。

 やりとりを聞いていた機関区の輸送係は、「承知」と一言だけ返事をすることが多かった。まあ、ここで作業を延期したところで、結局は別の日にしなければならない。そうなると、事前の調整やら何やらと面倒な手続をもう一度やらなければならないから、できるのなら一回で済ませた方がお互いによいということだ。

 それに、機関区としても何度も電気区に足を運んでもらうのは、気が引けるそうだ。

「了解です~。動きがあったらまたレラします」

「はい、あとよろ~」

 こんな具合で、トランシーバー越しに打ち合わせをして、安全を確保する。

作業開始になると、扱所の輸送係は、電気区の職員が作業をしている箇所に、誤って機関車が進入をしないよう、操作卓の上にはそのことを明示する札を貼り付ける。そして、転轍機や信号機のスイッチ類にカバーを掛けて、同じく誤って誘導しないように防護措置を執るのだ。