戦前の夜行列車
夜行列車の登場は、意外にも早く第二次世界大戦前には既に運転されていた。
もちろん、東京から各地へ向かう長距離列車である。当時は蒸気機関車が列車の先頭に立っていたことと、建築技術が今ほど発達していなかったことなどもあり、速度もあまり出せなかった。
それ故に、東京から九州まで20時間ちかくかけて走っていた列車もあったようだ。
無論、今のように航空機はまだまだ黎明期であり、自動車はあっても長距離を走る性能をもつものはない。しかも、道路も整備されていないから、第一選択は自ずと鉄道にかぎられてくる。
そんな長時間をかけて走るのだから、寝台車の連結は必然的であったろ思う。
一部の優等列車には寝台車が連結されていた。その主な顧客は、政治家や高級官僚、高級将校たる軍人、財界の重鎮などだったようで、一等車寝台車や二等寝台車がほとんどだった。いわば、特権階級の人たちだけが寝台車を利用することができた。
一等車はいうまでもなく、最も高い運賃設定であり、1両あたりの定員は少ない。
それだけに、利用する客層も限られていたので、寝台車も個室と開放式のどちらも用意されていたようだ。ただ、当時の技術では、昼は座席として使い、夜間は寝台へと変換することが技術的に難しかったようで、個室式は枕木方向に二段式寝台を設置し、それに向かうように座席が設置されたコンパートメントだった。
開放式は二段式寝台が並べられ、それに向かうように座席が置かれていることは個室式と同じだったが、そのいずれもがレール方向に並べられていることが異なっていた。一等寝台車といっても、昼間は現在の通勤形電車と同じように窓を背にして座るというのに少々驚いたものだ。
だが、残念なことに、当時のことを伝える資料が極端に少ない。
それもそのはずで、一等車を利用する客層はそれなりの人物たちだから、そうした車内を写真に収めようとする人も皆無だったのかも知れない。
二等車もまた同じく、庶民には手が届かない存在だ。こちらは写真も僅かに残されているが、これもまた驚いた。座席は一等開放式と同じく、レール方向にずらりと並べられている。しかも、両側なので一見すると通勤電車と見まがう。昼間は窓上に上段が収納され、夜間はそれを降ろして設置し、下段は椅子をそのまま寝台として利用したようだ。
どちらにしても、当時の技術では高速性能と乗り心地を両立させることが難しく、三軸ボギー式台車を装着して、高い運賃に見合った乗り心地と設備を提供したとされている。
では、庶民はというと、三等座席車が当たり前。運賃ももっとも廉価で、二等料金の半額。しかも高価な特別料金は不要だったから、たとえ丸一日近く硬い座席に体を預けたままでも、それはそれで利用する価値があったのかもしれない。
もっとも、その当時に長距離の列車に乗って旅行をするなど、たとえ三等座席車を利用したとしても、なかなかできるものではなかったようだ。そう、今ほど長距離を移動してまで生活する必要性が少なかったのだろう。そんな中でも、三等寝台車は用意され、方通路式で枕木方向に三段式寝台を備えていた。今日のB寝台とほぼ同じ設計だったようだ。
第二次世界大戦が勃発し、日本も戦時体制下に置かれるようになると、不要不急の優等列車は次々と運転が取りやめられ、豪華な設備を誇った寝台車は使用停止されるか、あるいは改造を受けて他形式に変えられ姿を消していった。
終戦後、戦後復興の象徴として国鉄は特急列車の運転再開に漕ぎ着ける。
残存した優等者をかき集め、改造された寝台車を復元するなどして、特急「はと」の運転を開始する。その後、次々と長距離を走る優等列車を復活させ、寝台車もまた活躍の場を再び広げていった。
1960年代にはそれまでの客車とは運用思想を180度の大転換をした、20系客車による夜行長距離特急列車が運転開始した。いわゆる「ブルートレイン」の登場である。
一等寝台車は一人用個室と二人用個室、そしてプルマン式と呼ばれる開放式寝台車を用意。さらに二等寝台(この頃の等級制は一等と二等の二等級制)は寝台幅50cmの三段寝台が用意された。ただ、それでも寝台車というのは高嶺の花だったようで、座席車も用意された。
乗り心地も旧型客車に比べてよく、接客設備も当時としては最高レベルの設備を誇ったこの客車は、軽量構造ということもあって、今とは比べものにならない非力な機関車であっても、それなりの速度も出せる。しかも、線路(軌道)にかかる負担も少なくてすむことから、この新たな客車による夜行列車は運用、保守、乗客たちに好評をもって迎えられ、旧型客車で運転されていた列車は、次々と装いも新たな20系客車へと転換していった。
ちなみに、寝台車には給仕掛という職種の乗務員が乗務していたという。寝台の設置や解体が主な仕事だが、一等寝台では乗客の要望に応える役割を担っていたという。その職名からも、一等寝台車の乗客ははやり政財界や富裕層の人たちが利用していたことを考えると、まだまだ高嶺の花だったのかもしれない。
私も小学生の頃、この20系客車の個室寝台の部屋のイラストを見たことがあった。
そこにはゆったりと座れる一人用のソファに、各部屋には洗面台がついている。ベッドにすれば幅は70cm以上というゆとりのあるこの個室に、いつかは乗ってみたいとも思ったものだった。
もちろん、小学生にそんなお金はない。悲しいかな私の実家は昔でいうところの「本家」だったので、田舎へ帰るという習慣はないから、たとえ窮屈な三段式の寝台車でも利用する機会などあるはずもなかった。
凋落の始まり
次々と増発と増備を重ねられた豪華な設備をもつ20系客車。
必要最小限の所要数と、連日1000km以上に及ぶ長距離走行を繰り返したことで老朽化が進行し、さらに時代の流れとともにせっかくの豪華な設備も陳腐化が目立つようになってしまった。
追い打ちをかけるかのように、新幹線の延伸開業と並行するように、急行列車の特急格上げも行われ、いよいよ手持ちの20系客車では賄いきれなくなってしまった。その一方で、夜行急行列車として運転されていた客車は、いわゆる旧型客車と呼ばれるもので、その中でも軽量車体と近代的な設備をもって開発し、期待をもって登場した10系客車は、その極端な軽量化が災いして予想よりも速く老朽化が進行していた。特急に格上げするからには、車両も旧来のままというわけにはいかなかったのだ。
そこで国鉄は、新型の客車を製造して投入する。
1970年代初め頃に装いも新たに、14系客車、24系客車が次々と製造され、老朽化と設備の陳腐化が進む、20系客車を追い出すように置き換えられていった。
それと前後して、国鉄は人員削減によるコスト軽減を目指し、給仕掛を廃止した。給仕掛は寝台の設置と解体、乗客への案内など接客サービスを主任務とする列車乗務員だった。資料には白い詰め襟上衣に制帽、腕には「給仕掛」の腕章という姿で、20系客車で運転される列車に複数名乗務していたと記録がある。
「走るホテル」といわれた戦後の寝台特急は、それだけ高いステータスを保っていたようだ。「列車ボーイ」と呼ばれ、乗客をもてなすこともしたこの乗務員も、様々な問題点が指摘されて「乗客掛」へと変えていったが、その主任務はあくまでも寝台の設置と解体。20系客車は、乗降扉の開閉から寝台の廃設まで手動だったため必要な乗務員であったが、それを自動化することで人員は削減できる。
そこへ登場した新型の14系と24系。
見た目も製造も新しかったが、とにかく製造コストを削ぎ落とそうと躍起になった国鉄のある意味「会心作」だった。先代が高級感満載だったのに対して、とにかく合理的で安く造ることが至上命題。
それもそうだろう。この頃の国鉄は、その台所事情は火の車だ。
毎年のように巨額の赤字を生み出し、やがては天文学的数字ともいわれた巨大赤字に陥ってしまう。だが、国鉄という公共企業体であるが故に、赤字であろうが国民の要望に応えなければならない、義務のようなものがついて回るから、輸送力の増強はし続けながら、老朽化した車両はリプレースしなければならないというジレンマを抱えていた。
そうそう、高級志向で設備投資ができる状態ではなかったと思う。
それでも、まだまだ旺盛な需要に応えようと、必死になって造ったのが14系と24系なのだ。
A寝台は個室式を止めすべて開放式とし、寝台幅を1000mmとれるプルマン式にした。B寝台は寝台幅を従来の500mmから200mm広げて700mmへと拡大した。前者は二段式、後者は三段式と天地方向は変わらないが、少しでも定員を確保しようとした努力が窺われる。
そしてなによりも、神大の設置と解体の自動化を推進したことだ。ボタン一つで、走行中に寝台を設置したり解体できるのであれば、1列車に数人も乗務していた乗客掛を減らすことができる。そうなれば、運用にかかるコストも削減可能だ。
もちろん、国鉄は製造コストの削減も忘れていなかった。合理的な設備と製造工法も相まって、乗り心地は20系に及ばず、とにかく揺れが大きかった。寝台幅は拡大したとはいえ、一見すると体を横にするには広くなった。が、それでも三段式寝台の欠点である窮屈さは解消されず、設備も新しいとはいえ、それなりのものとなってしまった。
皮肉なことに、この頃になると寝台車も庶民に手が届くものとなっていた。
それ故に、まだこの頃は需要がそれなりにあったのだろう。
私の友人の何人かは、「ブルートレインに乗ってきたんだ」なんて言っては、土産に車内や列車の写真を見せてくれたものだ。かくいう私は、ただただ羨ましがって、指をくわえて見ているしかなかった。なんと悔しかったことか!(笑)
SLブームも去り、代わってお子様鉄道ファンにとってのアイドル的存在のブルートレインの実態は、かくも旧式化した20系に及ばない客車によって占められているというのが実情だった。
そして、1980年代半ばを過ぎると、いよいよ栄華を誇った夜行列車は凋落の一途をたどることになってしまう。
次々に乗客を奪われていくなか、国鉄はただ手をこまねいてみているばかりではなかった。
窮屈さは変わらなかったB寝台の三段式をやめ、二段式へと改めた24系25形客車を新造。さらに、既存のB寝台も二段式へと改造して居住性を向上させた。さらに、当時の看板列車であった「さくら」に4人一組で利用できる「カルテット」を導入。「富士」「はやぶさ」には乗客がくつろげる空間として「ロビーカー」を連結するなどの策を講じた。
しかし、寝台を二段式へと変えることは、定員そのものが減るということにつながる。そうなれば、いくら満席になったとしても減収になってしまう。そこで、料金体系を変更し、二段式寝台は三段式とは別設定とした。
様々な手を打ち、改善を図った。
だが、利用者の減少に歯止めがかかることはなかった。