旅メモ ~旅について思うがままに考える~

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鉄道の進化と安全性向上: 実験と研究の成果 職用車「ヤ」をつけた有蓋車【3】

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《前回からのつづき》

 

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 走行特性試験に用いるため、これら有蓋車からの改造あるいは改良によって登場したヤ80形、ヤ81形、ヤ82形は、車体を営業用の貨車ではなく試験車であることを人目で判別できるように、客車と同じ青15号に塗られていました。数多くある国鉄の貨車の中で、この青15号に塗られた車両は、この走行特性試験車に改造された3両だけだったと考えられます。

 

ワム80000形と同一寸法の車体に、2軸ボギー台車であるTR216形を装着したヤ82形は、国鉄保有すした貨車の中でも一際異色の存在だったといえる。車体が短い車両にこうしたボギー台車を装着した場合、どのような走行特性があるのか、脱線に至る危険な挙動があるのかなど、ヤ80形やヤ81形とともに様々な実験に供された。車体は青15号一色に塗られていたことも、貨車としては異質だったといえる。(国鉄貨車形式図 1979年日本国有鉄道より抜粋)

 

 この3形式の試験車は、北海道にある狩勝実験線に送り込まれ、鶴見事故の原因となった競合脱線が起きるメカニズムの解明に活用されました。狩勝実験線は新線に切り替えられた根室本線とは物理的に遮断されていたので、試験中の車両が誤って営業線に冒進することはありませんでしたが、試験に供される機関車とともに国鉄線でありながらほかの路線とはつながっていない線路上を走行する異色の存在でした。

 実験は機関車に牽かれた試験用貨車と、無線による遠隔制御と実験データ収集用の機器を備えたマヤ40形が旧新内駅側まで登り、そこから突放されると下り勾配を惰性で走りながら、人為的に試験用貨車を脱線させるというものでした。実験中はマヤ40形に備えられたカメラが車輪の様子を撮影したり、様々なデータを記録してそれを無線で送信したり、新得駅側に差し掛かる頃には無線による指令でブレーキ装置を作動させて減速・停車させました。

 この実験では試験用貨車を人為的に脱線させて走行するので非常に危険性が高いため、実験列車に国鉄の技術者や研究者といった人間が乗ることはなく、すべてマヤ40形による無線遠隔によってデータの記録収集などが行われていました。そのため、マヤ40形は国鉄保有した試験用車両の中では特殊な装置を搭載していたのです。

 ところで無線遠隔によるデータ収集とブレーキ制御を担ったマヤ40形は、種車第二次世界大戦後に製造された一等寝台車であるマイネ40形(後に二等級制に移行してマロネ40形に改称)でした。マロネ40形は、連合国軍による優等車両の接収を前提としてGHQの指示で設計製造された車両で、戦前から連なる国鉄の客車の中では個室寝台とプルマン式開放寝台を備え、さらに冷房装置を搭載した非常にレベルの高いものでした。ところがこのマイネ40形、GHQの気まぐれな朝令暮改ともいえる指令の変更により、先行量産車が完成したにもかかわらず、購入されることなく宙に浮いた「デッドストック」状態になりました。

 その後、国鉄の前身である運輸省GHQに対して交渉を続け、再び製造指令を引き出すも再度中止の指令が出されてしまいます。結局、将来の外国人観光客の輸送に必要であると主張し、ようやくGHQも認めたことでようやく製造の承認を取り付けるという、まさに紆余曲折の上での製造でした。

 マイネ40形は当時としては高級資材を多分に使ったレベルの高い設備を備えた車両で、個室寝台はもちろん開放式寝台も日本で初めてプルマン式寝台をさいようしました。このプルマン式寝台は、昼間は折りたたんで座席として使用し、夜間は座席をベッドに変形できる優れものでした。もっとも、その名が示すように海外では当たり前の設備でしたが、日本では現在の通勤形電車と同じようにレール方向に寝台区画ごとの仕切りを備えた座席を、夜間はそのまま寝台としたいわゆるツーリスト式が優等車両の寝台設備であったので、それから比べると格段の進歩を遂げたといえるでしょう。

 新製後のマイネ40形は、同時期に製造されたマイネ41形とともに進駐軍専用列車などに連結されて、全国の主要幹線で運用されましたが、後に連合国軍に接収された多くの戦前製一等寝台車が変換されたものの、ツーリスト式寝台を備え、3軸ボギー台車を装着したこれらの車両は年式も古く、その車体構造や台車に由来する車両重量の重さや、接客設備の面でもサービス上の問題もあって、マイネ40形とマイネ41形は当時としては最上等の車両として、東海道山陽線優等列車に優先的に充てられました。

 しかし、一等寝台車として製造されたマイネ40形でしたが、一等寝台車よりも二等寝台車のほうが需要が高いという理由で、1955年には一等寝台車から二等寝台車に格下げされ、形式名もマロネ40形に変更されてしまいました。

 

多くの紆余曲折を経て、国鉄が戦後初めて製作した優等寝台車であるマロネ40形は、当時としては貴重な冷房装置を搭載し、幅広のプルマン式寝台を備えるなど、後に製作される寝台車の礎となった。また、戦前製の優等車は重量の関係から3軸ボギー台車を装着することが多かったが、マロネ40形は2軸ボギー台車を装着していた点でも、車両に関する技術の進歩が見て取れる。登場して間もなく一等寝台車という区分が廃止になったため、形式を二等寝台車に改めマイネ40形となった。20系固定編成客車が登場し量産されると、マイネ40形は次第に活躍の場を失っていき、余剰車は事業用車に転用するため改造を受けた。狩勝実験線で脱線事故を再現する実車試験という前代未聞の実験のため、マイネ40形から1両が試験用の事業用車であるマヤ40形に改造され、無人で走行中にブレーキ装置などを無線操縦するための機器や、各種の測定器などが搭載された。写真はマヤ40形の種者となったマイネ40形の1両で、工事用職用車として残っていたマヤ41形から復元されたマイネ40 11。(マイネ40 11 碓氷峠鉄道文化むら 筆者撮影)

 

《次回へつづく》

 

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