〈前回からの続き〉
1964年の東海道新幹線開通により、東海道本線を走っていた昼行特急列車はその役目を失い、多くが廃止されていきました。列車としては「こだま」が新幹線へ移行していき、伝統の列車の一つといえる「はと」と「つばめ」は運転区間を新大阪-博多間の九州直通特急へと変えられていきました。東京を始発とした往年の姿を考えると、西へと「落ち延びた」に等しいような扱いではあったものの、それでも残ったのは奇跡的といえるでしょう。それも、山陽新幹線の開業とともに運転区間を短縮していき、1975年の山陽新幹線博多開業を迎えると、ついに伝統の特急列車は姿を消していきました。
いっぽう、「富士」は東海道新幹線開業により、昼行特急列車群からは消えていきました。1964年10月のダイヤ改正で、「富士」は東京対九州間の寝台特急群に入れられ、「つばめ」「はと」とは対照的に、寝台特急列車として往年の栄光を取り戻すかのように活動を始めます。
この寝台特急「富士」の復活より前後して、東京と九州東海岸、すなわち日豊本線を結んでいた列車に触れておこうと思います。
終戦後間もない頃から、東京と九州を連絡する急行列車は多くが設定されていましたが、九州東部を連絡する列車として、1951年から東京-都城間を結ぶ501・502列車が設定されました。翌1952年には「たかちほ」という愛称がつけられました。この時点で寝台車の連結はなく、すべて座席車、それも三等車が中心という陣容でした。
1954年には東京-博多間の急行「玄海」と併結になり、1955年にはなってようやく半室合造車ながらも二等寝台車(マロネロ38)が連結されて、夜行列車としての体裁を整え始めました。
1956年に「玄海」との併結を取り止めて単独運転に戻るとともに、愛称を漢字表記の「高千穂」へと変更、食堂車を連結して、運転区間も都城から西鹿児島へと延長して、日本で最長距離を走る列車へとなっていきました。その所要時間はなんと31時間28分と、今日では考えられないような長時間。1日半もかけて終着へと辿り着くので、この当時から全区間を乗り通す乗客はほとんどいなかったと言います。
その後、「高千穂」は大きな変化がなく運転され続けますが、日豊本線を走る特急列車には少し変化がありました。既に「はやぶさ」や「みずほ」の稿でもお話ししましたが、1963年に「はやぶさ」の付属編成を門司で切り離した後、大分へ向かわせる「みずほ」が登場しました。この「みずほ」の大分乗り入れは1年で終了しますが、この代わりとして東京-大分間を結ぶ寝台特急として「富士」が設定されたのでした。
20系客車に置き換えられ、新たに東京と九州東部を結ぶ寝台特急となった「富士」は、1等寝台車(ナロネ21)と食堂車(ナシ20)、そして付属編成との連結部になる緩急車として2等座席車(ナハフ21)をそれぞれ1両連結した14両編成で運転が始められました。基本的には2等寝台車で組成されている陣容は、後に24系25形になっても変わることはなく、基本形はこの時にできあがったといってもいいほどでした。
1965年に中間組み込みの緩急車が2等座席車から2等寝台(ナハネフ23)へと変わった程度で、さほど大きな変化はありませんでした。
ところが1965年には、運転区間が西鹿児島まで延長され、先におはなしした急行「高千穂」に並んで、日本で最長距離を走る列車にまでなっていったのでした。
1975年の山陽新幹線博多開業は、西日本の国鉄線、とりわけ九州に乗り入れる列車群に大きな変化をもたらしました。
昼行特急や急行列車の多くが廃止されていきました。これは、並行する在来線の特急列車や急行列車は所要時間も長く、利用者のメリットが失われることと、運用する車両も乗務員も、長時間の運転によりコストがかかることから、利用者の多くを新幹線へと転移させることが目的でした。それとともに、莫大な資金を注ぎ込んで建設した新幹線に利用者が少なく、従前の在来線の列車が盛況となってしまっては元も子もありません。できる限り乗客を新幹線に転移させて、新幹線特急料金で稼いで建設費用を賄いたいという国鉄の本心もあったからといえるでしょう。
EF65 500番代P形が牽く「富士」。24系25形に置き換わって2年後の1978年の撮影とのことで、客車の車体がまだ新しさを感じる。それを牽くEF65は、九特牽引機として特に念入りに検修と清掃を受けて綺麗な状態を保ってはいるが、やはり真新しい客車とは対照的に「くたびれた」感じが否めない。
出典:ウィキメディア・コモンズより ©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0,
このダイヤ改正では、長らく「富士」を補完する存在として走り続けてきた「高千穂」が廃止になりました。「高千穂」の廃止により、東京と九州東部を直接結ぶ列車は「富士」だけになりました。それとともに、1965年の運転開始以来使われてきた20系から、新たにつくられた24系へと置き換えられます。
24系に置き換えられて装いも新たにした「富士」は、ダイヤ改正後も変わることなく日豊本線経由で東京と西鹿児島の間、その距離1,574.2kmを24時間近くをかけて走り続けました。
しかしながら、かつては多くの乗客で賑わった九特も、既にこの頃から凋落が兆しが見え始めていたといいます。20系も24系も三段式寝台で、20系は寝台幅50cm、24系は70cmと居住性が向上していますが、その分だけ定員は減らさなければなりません。利用者が多くて捌ききれない状態であれば、定員を減らすことなど考えられませんが、24系に置き換えた時点で1列車あたりの寝台数は確実に減っています。そのことを考えると、既に1975年の時点で利用者の減少が始まっており、定員を減らしても問題となるような混雑は見込めないとも考えられるのです。
翌1976年のダイヤ改正では、24系からさらに改良され居住性を向上させた24系25形に置き換えられました。基本構造は24系と同じなのですが、25形ではB寝台が二段式になり、A寝台は従来のプルマン式開放寝台ではなく、完全な個室寝台へと変わりました。
二段式寝台は1寝台あたりの天地方向の高さが確保され、寝台に座ることもできるなどメリットはありますが、運用する国鉄にとってはさらに乗車定員が減るというデメリットがありました。それでも、乗客の居住性を優先させたのは、従来の接客設備では陳腐化と居住性に難があり、利用者離れを食い止めるためには苦肉の策だったのでしょう。言い換えれば、二段式寝台になって定員が減っても、既にこの頃の九特は問題にならないほど、利用者の減少が始まっていたと考えられます。しかし、その分だけ寝台料金も高めに設定されてしまっては、利用者から見向きもされなくなるのは当たり前ですが。
1978年になると、それまで東京-下関間の先頭に立っていた牽引機であるEF65 500番代P形から、新たにつくられたEF65 1000番代PF形へと変更されます。ほぼ毎日のように長時間・長距離走行を強いられてきた500番代P形の老朽化は深刻で、台車の台枠部に亀裂などが多数発見されたことなどから*1、国鉄もこれ以上500番代P形を先頭に立たせることは難しいと判断し、新製されたばかりの1000番代PF形の第7次車へと代えたのでした。
意外だったのは、日豊本線の全線電化が比較的遅かったことでしょうか。1978年の時点でも、宮崎以南はまだ電化工事が完成していなかったため、牽引機はDF50がその任にあたっていました。宮崎以南の電化は翌1979年まで待たねばならず、それ以後はようやく九州島内はすべてED76が牽くようになります。
とはいっても、それは1年しか続きませんでした。
特に宮崎以南の利用者は非常に少なかったようで、そのことは電化開業が遅かったことからも推察できます。ですから、この区間は「富士」にとって、けして利用が多いとはいえず、むしろ走れば走るだけ経費だけが嵩んでしまうという状態だったのでしょう。
1980年のダイヤ改正で、ついに「富士」は運転区間を宮崎まで短縮し、宮崎-西鹿児島間を廃止しました。これにより、それまで日本で最長距離を走破する列車でしたが、その座を同じ九特で鹿児島本線経由の「はやぶさ」に譲りました。
もはやこの時点で、九特の、そして「富士」の凋落ぶりは顕著であり、巨額の赤字を抱え財政事情は火の車であった国鉄にとっても、九特は稼いでくれる列車ではなく、経費が嵩む列車になっていたと考えられるのでした。
《次回へつづく》
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