旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 「みずほ」という寝台特急がありました【前編】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 日本の鉄道から「ブルートレイン」というカテゴリーの列車が消えて、早くも5年が経ちました。最後まで走り続けたのは上野-札幌間の「北斗星」で、北海道新幹線の開業と引き換えに廃止されています。

 上野から北へ向かう夜行列車は数多くありましたが、「北斗星」の設備はとにかく「豪華」でした。これが同じ客車を改造したものか?と、乗る度に感じていましたが、走り出すとやはり国鉄形の24系客車そのもので、後から登場した「カシオペア」とは比べものにならない「国鉄」の匂いも漂っていました。

 ところで「ブルートレイン」というと、1970年代に巻き起こった「ブルートレインブーム」を忘れることはできないでしょう。かくいう筆者も、幼き頃はこのブームに乗ってしまい、日本各地を走る寝台列車に思いを馳せたものです。ご褒美か何かで買ってもらったパズルはもちろん「ブルートレイン」。富士山を背景に、EF65 500番代P形が牽く20系の列車は、とにかくその青い車体が眩しかったのを覚えています。

 このブルートレインブームの全盛期、もっとも脚光を浴びていたのは東京-九州間を結んでいた列車たちでした。「さくら」「あさかぜ」「富士」「はやぶさ」などなど、今でも東京発の列車たちを思い起こすことができます。最近は歳のせいか物覚えが悪くなってきているのですが、幼少の頃にしっかりと擦り込まれたことを覚えているのも不思議なものです。

 さて、そんな東京ー九州間の寝台特急群の中に、「みずほ」という列車があったのをご存知でしょうか。ご存知の方は、きっと筆者と同じ年代か、それ以上の諸兄ではないでしょうか。もちろん、若い人も「みずほ」という列車があったことをご存知であれば、それは嬉しいお話です。

 

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東海道本線を東進する14系客車「みずほ」 1987年5月頃 浜松町ー田町(筆者撮影)

 

 「みずほ」は東京―熊本間を結ぶ寝台特急でした。東京―熊本間を結ぶ列車としては、既に「はやぶさ」がありましたが、「みずほ」はそれを補完する存在の列車でした。

 「みずほ」は1960年に臨時列車として運転された「あさかぜ」を前身としていました。「あさかぜ」は東京―博多間を結んだ列車として名高いですが、この頃はまだ旧型客車での運転だったので、臨時に熊本まで運転された列車もあったようです。その熊本行き臨時「あさかぜ」を不定期列車として分離させて登場したのが「みずほ」でした。

 登場時の「みずほ」は10系寝台車と10系座席車、そしてスハ43系で組成された列車で、不定期列車ながらも編成中には食堂車オシ17を組み込んでいました。寝台車も一等寝台車(オロネ10)のほか、二等寝台車も数両連結するという当時としては豪華な列車だといえます。

 後に「みずほ」は定期列車に昇格、さらには旧型客車から20系客車へと変更され、文字通り「ブルートレイン」として運転されるようになります。それとともに、基本編成は熊本行きとし、付属編成は門司で切り離した後、日豊本線を南下して大分まで運転する形態へと変わりました。

 これは、基本編成は「はやぶさ」を補完するという役割はそのままに、付属編成は「富士」の前身となる役割が与えられたのでした。この「補完する」というのは、当時の長距離旅行の主役は鉄道で、特に寝台特急のような夜行列車は人気が高く、「はやぶさ」は非常に混雑していたといいます。列車から溢れた利用者を救済しつつ、混雑を緩和することを目的に運転が始められたのが「みずほ」でした。

 20系になって1年が経つと、大分まで運転されていた「みずほ」の付属編成は「富士」として分離されます。代わりに「みずほ」の付属編成は門司では切り離さず、そのまま鹿児島本線を基本編成とともに西進し、博多駅で切り離すようになりました。言い換えれば、日豊線への利用者は「富士」として分離することで、需要の旺盛な鹿児島本線方面への列車の供給量を増やしたということになります。

《次回へつづく》

 

#国鉄 #夜行列車 #ブルートレイン