《前回のつづきから》
特筆されるのは、オユ10やオユ12といった郵便車にも、この構造が使われたことでしょう。これら郵便車は、国鉄に車籍を置く客車ですが、所有は郵政省のものです。製造のための予算も国鉄のものではなく、郵政省の予算であることです。郵政省が所有する私有客車なので、取り立てて古い構造の車両でも差し障りは多くなかったともいえますが、国鉄はこれら郵便車にも10系と同じ構造の車両を設計・製造したのでした。それだけ、この軽量構造の客車は、当時の国鉄技術陣にとって大いに自慢できる車両だったことが窺えます。
量産された10系客車は、国鉄の看板列車ともいえる特急「はと」などにも充てられました。広い窓のおかげで明るくなった車内や、ナハ11から採用された蛍光灯によって、夜間も室内が明るくなるなど、利用者にとってもひと目で「新型車両」ということがわかりました。
当然ですが、寝台車の存在も大きかったといえるでしょう。従来の寝台車は一等寝台車か二等寝台車が中心で、三等寝台車は戦前製の客車ではスハネ30とスハネ31だけでした。第二次大戦中は三等寝台車自体が「過剰サービス」、言い換えれば「贅沢品」と見做されこれら三等寝台車は座席車に改造、三等寝台車の営業が廃止されました。戦後も1950年代になるまでは三等寝台車は復活がされず、結局10系客車の三等寝台車であるナハネ10が製造されて、ようやく復活したのでした。
三等車を利用する乗客は、一等車や二等車のそれと比べると遥かに多いのが実態です。高価な運賃を払えるのはごく一部の人たちで、一般には最も安価な運賃となる三等車の需要が多いのは当たり前のことです。こうして、需要が最も多い三等寝台車の設定は、多くの旅行者からも歓迎されたことでしょう。
この華々しく、そして当時の先進的な技術をふんだんに使った10系客車は、やがて様々な課題に直面することになるのです。
既にお話してきたように、10系客車は航空機設計の技術を応用したモノコック構造によって、徹底的に軽量化が図られました。台枠や車体はもちろんんのこと、台車もプレス鋼板組立で溶接を多用したことで、鋳鋼製の従来の台車と比べるて大幅に軽量化がされました。しかし、この軽量台車であるTR50は、枕バネの設定が極端に硬かったので、高速で走行中に動揺が激しく乗り心地を悪くしました。本来、軽量車体を載せたのであれば、台車の枕バネは硬くする必要がありません。しかし、国鉄はどういうわけかTR50の枕バネを硬くしてしまったことで、軽量車体の重量とは見合わないものとなったのでした。さらに悪いことには、この激しい動揺を抑えようと、枕バネの設定を変更するのですが、これまた何を勘違いしたのか枕バネを余計に硬くせっていしたため、動揺は収まるどころかさらに悪化させてしまったのでした。
10系客車の開発とともに、新たに設計された軽量台車であるTR50。在来の客車用台車のほとんどが鋳鋼製か形鋼製の台車枠であったため、台車自体も重量があった。これを改善するため、プレス鋼と溶接を多用して軽量化を図ったのである。国鉄技術陣の目論み通り、TR50は軽量化には成功したものの、ばね定数の設定を硬くしてしまったことと、車体を極端に軽量化したことによって、乗り心地は在来のスハ43系やオハ35系と比べて悪化してしまった。しかし、このTR50を基本として、後に登場する20系や14系、24系などの客車には改良形の軽量台車が開発されて装着することになった。(TR50(ナハフ11 1) 2011年7月18日 碓氷峠鉄道文化むら 筆者撮影)
また、極端に軽量化を徹底するために車体鋼板の厚さを薄くしたため、外板の劣化が思ったよりも早く進行することになります。薄い鋼板、そして激しい動揺は車体自体にもダメージを与えてしまい、晩年の10系客車は外板が歪んでしまったものが多数あったようです。加えて、寝台車に採用された一段下降式の窓もまた、老朽化を進めることにつながっていました。従来の窓が上昇式であるため、窓枠上部に窓を収納します。しかし、一段下降窓は窓を窓下に収納する方式のため、窓枠から雨水が車体の窓収納部に侵入し、その侵入した雨水は車体の裾部に溜まって、やがては車体を腐食させてしまったのです。
さらに、10系客車は保温性にも課題を抱えていました。軽量化をするために、通常であれば木やグラスウールといった断熱材を使いますが、やはり軽量化を最も重視したためアスベストを吹き付けた簡易な断熱構造となったため、冬季には暖房をいくら効かせても、暖かくならないなどといった保温性の悪さが目立ってしまったのでした。
軽量で窓が大きく、そしてノーシル・ヘッダーの滑らかなヨーロピアンスタイルに通じる滑らかな車体を持つ10系客車は、登場時こそ最新技術がふんだんに使われた期待の新鋭客車でしたが、このように台車のバネ設定に起因する乗り心地の悪さや、極端な軽量化によって早期に車体の歪が出てしまい、アスベストのみに頼った貧弱な断熱構造など、多岐にわたる欠点を露呈する羽目になってしまいました。
結局、12系や14系座席車が登場すると、定期で運転される急行列車などはこれら最新の車両に置き換えられるか、皮肉にも10系客車よりも旧式で、「ス」級の重量をもつスハ43系などに取って代わられてしまい、あとは細々とローカル運用に充てられるか、余剰車として運用から外された後に廃車・解体されてしまいました。1987年の国鉄分割民営化の時点では、ごく僅かだけが残っていただけで、事業用車(控車)代用として配置されていた2両のナハフ11が、JR東日本に継承されたのみでした。
ところで、10系客車の中でも寝台車は、座席車とは少しばかり事情が異なりました。それまで寝台特急として運用されていた20系客車が、14系や24系に置換えられた玉突きで格下げされ、それまで10系客車など旧型客車で運転されていた夜行急行で使われるようになりますが、それでも所要数を満たすことができずにオハネ12やオハネフ12などの寝台車が活躍する場は残っていました。
10系客車は、座席車が比較的早期に優等列車の運用から退き、廃車となる車両も出る中で、寝台車は代わりとなる車両がないことや、いずれは廃止される列車に連結されていることもあって、後継となる一般客車の寝台車は製造されなった。そのため、国鉄分割民営化の直前まで、比較的多くの寝台車が残存し運用されていた。長年の運用で車体にも歪みが入ったのであろうか、妻面は車体表面が歪んだために凹凸が多くいられる。(ナハネ12 19〔門サキ〕 2011年5月21日 碓氷峠鉄道文化むら 筆者撮影)
これは、既にこの頃は急行列車を特急列車に格上げすることが前提で、いずれは廃止統合される列車のためにわざわざ新しい車両を新製することをせず、既に凋落が始まっていた寝台特急がいずれ廃止になったときに、14系や24系などの客車が余剰となって格下げてこれに充てればいいという考えでした。また、これらの施策が実現するまでには少しばかり時間がかかり、よしんば寝台車を連結する急行列車が残ったとしても、他に適当な車両もないことから、座席車と比べて残存し続け、分割民営化の直前まで営業運転に用いられたのでした。
このように、10系客車は当時としては最新の技術をふんだんに盛り込み、それまでの国鉄客車の設計製造の常識から脱却したことで、過去に例を見ない軽量車として、多くの期待を集めました。しかし、既にお話したように、台車のバネ設定の悪さと、極端に軽量化したことに起因する車体の歪みなどによる劣化など、けして期待通りとはなりませんでした。
しかし、10系客車で培った車両の軽量化技術は、その後の国鉄形車両に大きな影響を与えました。日本初の長距離用電車である80系300番代や、初の新性能電車である101系、さらに貧弱な出力のエンジンを搭載するために、電車や客車と比べて車格が小さく、しかも軽量化のために貧相な接客設備しか持てなかった気動車を、電車並みの大型車体へと拡張し、さらに車内も電車並へと近代化させたのも、車体の軽量化技術が応用されたためといえます。言い換えれば、10系客車は国鉄形車両の近代化に大いに貢献した功績を持つ、類まれな存在といっても過言ではないでしょう。
今回も最後までお付き合いただき、ありがとうございました。
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