旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第一章・その15「門司機関区での添乗実習・・・EF81で関門トンネルを越える」【前編】

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◆門司機関区での添乗実習・・・EF81で関門トンネルを越える【前編】

 いよいよ集合研修最後の実習場所となる門司機関区に研修配置になったのは6月の終わり。ここでは、日常的に行われる車両検修と機関車乗務の二つを体験することだった。

 前回までは...

blog.railroad-traveler.info 機関士養成候補生として採用されたので、まさに機関区での実習は非常に重要だと聞かされていたから誰もが楽しみにしていた。もちろん、私も楽しみにしていたから、ここでの勤務は楽しくて仕方がなかった。やはり、楽しみは最後にとっておくものだ。
 機関車の乗務は日中に行うとのことだったが、なにしろ貨物列車が活躍する時間帯は深夜が中心。だから添乗できる列車に限りがあり、午前中は車両検修の実習、午後から添乗実習ということも珍しくなかった。

 門司機関区はちょうど九州の玄関口である門司駅に隣接している。九州に入る、あるいは九州から出る列車は必ずこの門司駅を通過して関門トンネルを通らなければならない。そして、九州内は交流電化だが、関門トンネルから先の本州は直流電化。だから、この門司機関区は全国でも数カ所しかない『交直セクション』という所を通過し、さらに海底トンネルを通り抜けるという特殊な運転をすることになっていた。
 もう一つ、特殊と言えば当時はまだたくさんの寝台特急列車が走っていた。すべて機関車牽引の客車列車だが、東京または大阪などから九州へ出入りする列車は、この門司駅と隣の下関駅で機関車の付け替えをしていた。そして、機関車はJR九州保有しているEF81型400番台を使うが、機関士はJR九州では手配しない代わりに、JR貨物の機関士がこの寝台特急列車の運転をするという全国でも唯一の運用を行っていた。だから、門司機関区の機関士は貨物列車だけではなく、下関-門司間という短いながらも旅客列車の運転を担っていた。(旅客会社の機関士が貨物列車を運転するという運用は多くあった)

 もっとも、夜か早朝しか寝台特急列車はここを通らなかったので、私のような研修生が添乗する機会はなかったのは残念。
 さて、この添乗実習。そう何度も何度も乗務できるのではなかった。私が記憶している限りでは3回。その行路も一回ずつしかなかったが、非常に貴重な体験だった。

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 手始めは短い行路からだった。門司-幡生(操)間、時間にして30分弱。本当に短い。だが、先にも述べたように、九州の出入口である関門トンネルを通過するこの行路は、九州と本州を結ぶ貨物列車の結節点の役割があり、非常に重要なものだ。
 この当時、機関車は交直両用のEF81形だけがその役割を担っていて、貨物列車は重量があるのですべて重連と呼ばれる機関車を2両つなげた状態での運転だ。東北や北陸でも同じEF81形は走っていたが、この関門トンネルを通過するのは銀色に輝くステンレス製車体の300番台か、同じローズピンクを身に纏う重連運用が可能な400番台。そして、当時電気機関車で数少ないエアコン装備で民営化後のリピートオーダーである450番台という専用機が宛がわれていた。
 助役に連れられて、乗務する機関車が待機している留置線へ行くと、そこで機関車に『よじ登って』運転台に入る。『よじ登る』と書いたのは、機関車の運転台は私の背丈ほどの160センチメートル以上の高さにあるので、小さな梯子を登らないとそこに入ることができなからだ。少し背の低い人なら、文字通り『よじ登る』ことになる。
 運転台に入るとまずは機関士に「よろしくお願いします」とあいさつ。
 機関士は基本的に一人乗務で、運転中は誰とも喋ることがないから、どちらかというと無口の人が多かった。だから、この時の機関士も「おう」と一言だけしか返事をしなかった。