旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 新鶴見に「パーイチ」がいた頃【2】

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《前回のつづきから》

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 JR貨物から常磐線関連の貨物列車を委託されたJR東日本は、田端運転所に配置されているEF81を用いて、一部の貨物列車の運転を担いました。つまり、機関車とそれに乗務する機関士はJR東日本、列車はJR貨物ということが日常茶飯事になったのです。

 実際に、筆者も電気区配置時代に新鶴見機関区にはよく出入りしていましたが、信号場から入区してきたEF81が機待線に停車すると、パン下げして火を落としたEF81からJR東日本の征服をきた機関士が降りてくる光景を何度も見ました。JR貨物の運転区所に、違う制服を着た機関士が歩いている姿は、初めは見慣れずにギョッとしたものでしたが、それが日常的になると当たり前のものと気にも留めなくなりました。

 こうした理由で、田端所に配置されている旅客のEF81は、「北斗星」や「カシオペア」、さらには「あけぼの」といった花形の寝台特急の運用の他に、JR貨物の貨物列車を牽く運用もあったのでした。

 

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常磐線を走行する貨物列車を牽くJR東日本のEF81 94。JR東日本のEF81は、国鉄時代の交直流機標準色であった赤13号(ローズピンク)から、赤2号へと塗色を替えた。これは赤13号が経年で色褪せしやすい塗色であったことと、交流機も保有するため共通の色を使う方がコストが軽減できるからであった。一部の車両は、写真のように側面に銀色の「流星」を描いた「北斗星色」とされ、寝台特急北斗星」に合わせたデザインとしたが、運用は分けられることはなく貨物列車も牽く姿が多く見られた。写真は東邦亜鉛亜鉛焼鉱と亜鉛精鉱 を輸送する「安中貨物」と呼ばれる列車で、常磐線小名浜信越本線の安中を走り、今日では数少なくなった車扱貨物列車の一つである。(©JobanLineE531 (TC411-507), CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 EF81が首都圏の貨物列車を牽いていたのは、なにも常磐線内だけではありませんでした。

 例えば、いわゆる「安中貨物」として知られる、東邦亜鉛小名浜-安中間で輸送する亜鉛輸送の列車にもかつてはEF81が充てられたことがあります。これは、福島県にある福島臨海鉄道の小名浜駅から、常磐線泉駅を経て、信越本線安中駅まで運転されています。この列車も常磐線の交流電化と直流電化を跨ぐので、列車を牽く機関車も交直流機であるEF81がその先頭に立っていました。もちろん、このEF81は田端所配置の車両だったので、JR東日本のEF81が使われていました。

 今日では、北海道新幹線の開業によって、海峡線で運用される機関車は仙台総合鉄道部のEH500から、五稜郭機関区のEH800に変わったので、EH500の運用に余裕が出てきたことで、JR東日本への委託を解消させて「安中貨物」はEH500と自社の機関士による運行へと変わりました。

 これは、委託することで委託料を支払わなければならないJR貨物としては、できれば自前の機関車と機関士で運行することでその費用を軽減させたい思惑と、同じ電気車でも電車とは異なる運転操作が必要で、しかも運用も分けなければならない機関車乗務員にかかるコストを削減し、かつ老朽化が進む機関車をいずれは淘汰したい思惑が一致したため、委託の解除に至ったといえます。

 ところで、かつて日本の三大操車場とまでいわれた新鶴見操車場と、貨物機の牙城である新鶴見機関区には、赤またはローズピンクを身に纏った交直流機はその姿を一切見せることはありませんでした。

 新鶴見区は確かに貨物機の根城として、数多くの直流機が所属し、また各地からやって来る電機がここで足を休めて、折返しの運用につくことが日常的に見られ、沼津機関区のEF60や稲沢機関区のEF65など、東海道本線沿線にある機関区に所属する機関車たちが集う場所だったのです。

 そのため、交直流機がやってくることなど当時は考えられず、民営化後になってここにEF81が姿を現すようになったのを見たときには、それまでの常識を根底から覆された気持ちになり、時代が変わったことを認めずにはいられませんでした。

 そうした変則的ともいえる運用は、2013年のダイヤ改正をもって終了し、今日ではEF81が新鶴見に姿を現すことはなくなってしまいました。まさに、分割民営化のもう仕事もいえる事象が、近年まで続いていたのです。

 余談になりますが、旅客会社への貨物列車運行委託という状態は、なにもJR東日本だけではありませんでした。JR西日本も、こうした運用が存在していて、例えば富山県城端線はDE10が貨物列車の先頭に立っていましたが、DE10はJR貨物の東新潟機関区の所属、城端線ではJR西日本の機関士がハンドルを握っていました。こちらも委託解除になったので、城端線は2013年以降は富山機関区の機関士が乗務していましたが、2017年に城端線の貨物列車が廃止なり、同時にJR貨物第二種鉄道事業免許も廃止されています。

 一方で、旅客会社がJR貨物に運転を委託する例もあり、最も知られているのが山陽本線下関ー門司間、すなわち関門トンネル区間が挙げられます。関門トンネルを通過する客車列車はJR九州保有するEF81 400番代が牽き、これに乗務するのはJR貨物門司機関区に所属する機関士でした。寝台特急はやぶさ」「富士」の最終運転の様子を収めたビデオなどを見ると、下関で機関車を付け替えるときに、EF66が切り離されたあとに迎えにやってきたEF81の運転台には、まさしく貨物会社の制服を着た門司機関区の機関士がハンドルを握る姿がしっかりと映っていました。また、最小限の数だけしかなかったため、機関車の故障などが起きたときには、JR貨物のEF81が代走することもあったそうです。

  写真のEF81 58号機は、昭和46年度第2次債務で1971年に日立が製造し落成しました。製造目的は羽越本線新津ー秋田間電化開業用で、そのとおりに酒田機関区に新製配置されました。羽越本線日本海縦貫線を構成する路線で、新津ー村上間は直流電化、村上ー秋田間は交流電化で開業しました。そして、秋田からは奥羽本線ですが、長距離列車はそのまま直通する運用もあり、奥羽本線もまた交流電化だったので、これらの区間を直通するために増備されたのでした。

 しかし、この当時は今日のように関西圏から青森まで、EF81が1両で通しで運用されることはありませんでした。この頃はまだ、北陸本線にはEF70が稼働していた、羽越本線の交流区間奥羽本線にはED75が配置されていました。さらに、直流区間には信越本線上越線から乗り入れてくるEF15やEF58、さらにはEF65といった直流機が数多く運用されていたためでした。ただでさえ直流機や交流機に比べて製造コストが高く、おまけに交流区間ではその電気機器の構成上避けられなかった性能の相対的な低下を抱えるEF81を、わざわざ長距離運用を強いて消耗させることを避けたかい思惑が国鉄にあったようです。もっともこの運用では、機関車の付替が少なくとも3か所で発生し、そのたびに時間をかけてしまわざるを得ないため、結果として列車の運転所要時間が増えてしまうことになってしまったのです。しかし、当時の国鉄はそのようなことは度外視していた傾向があり、虎の子ともいえるEF81を可能なかぎり温存する運用を選んだのでした。

 

《次回へつづく》

 

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