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このブログでも、何度となく話題にしております「関門トンネル」。ご存知の方も多いと思いますが、本州と九州を結ぶ海底トンネルです。厳密には、鉄道トンネルと国道トンネル、そして新幹線の新関門トンネルがありますが、いずれも本州と九州を隔てる関門海峡の海底下に掘削されたトンネルです。
今回は、本州九州間の要衝でもある関門トンネルを結んだ電機たちにスポットをあててみたいと思います。どうぞ、最後までお付き合いいただけると幸いです。
1.関門トンネル建設前の関門間の鉄道事情
鉄道開通以来、国の施策で鉄道網は全国に張り巡らされるようになります。東海道本線は新橋駅(後の汐留駅)ー横浜駅(現在の桜木町駅)の開通を皮切りに、西へ西へと伸ばしていきます。
一方、いきなり全国に鉄道を建設するには国の財政からも難しく、当時の政府は私設によって鉄道建設を許可します。これによって、次々と民営の鉄道会社が設立され、現在の幹線網が建設されました。
山陽本線の前身である山陽鉄道は、1888年に会社が設立され、同年11月に兵庫駅ー明石駅を開業させ、12月には早くも明石駅ー姫路駅間を延伸します。その後次々と延伸していき、1901年5月には山口県の馬関駅(現在の下関駅)まで延伸し、全線を開通させました。
©Tam0031 / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0) Wikipediaより引用
山陽鉄道は、積極的なサービス展開を行い、乗客の獲得をしていきました。兵庫ー下関間という長い距離を走破する列車を運転していたこともあって、寝台車や食堂車といったそれまでにない接客設備を備えた車両と、当時としては斬新なサービス展開をしていきました。
一方、関門海峡を隔てた九州側では、山陽鉄道と同じ1888年に九州鉄道という会社が設立されました。本社は現在の北九州門司区にある門司港駅に隣接する地に構えました。しかし、門司(→門司港)から鉄道を敷いたのではなく、100km以上離れた博多ー千歳川間を1889年に開業させることから始まりました。
こちらもほぼ計画通りに延伸していき、長崎と八代まで延伸していきました。
このように、本州側も九州側も鉄道が開通したこともあって、人はもちろん貨物も鉄道で運ばれるようになると、必然的に本州と九州の間も往来ができてきました。そこで、積極的な事業展開をしていた山陽鉄道は、1901年に自社の終着駅である馬関と門司の間に連絡船を運航させて、鉄道の利用客と貨物を運ぶようにしました。
これが、鉄道連絡船関門航路でした。
しかし、政府の中には「鉄道は国道と同じであるから、官営であるべし」と唱え、幾度となくこれら民営の鉄道を国有化しようとする動きがありました。そして、1906年に鉄道国有法が国会で可決・成立し、同年10月に北海道炭礦鉄道(現在の函館本線の一部)と甲武鉄道(現在の中央本線)の買収を皮切りに、今日の幹線網を形成する17私鉄がが買収・国有化されました。
そして、山陽鉄道と九州鉄道も国有化され、山陽鉄道が運航していた鉄道連絡船・関門航路も国有化されます。
国有化後も関門間は連絡船が運航され続けました。
旅客輸送の面では大きな変化はありませんでしたが、貨物輸送では様々な課題を解決するために、貨車から貨物を一度降ろして船に乗せ替える方法から、貨車をそのまま船に乗せる車両航送が始められました。
2.関門トンネル建設へ
増加し続ける貨物量に対して、貨車を直接船に乗せて運ぶ「車両航送」という技で、貨物の輸送時間の短縮はもちろん、積み替えがなくなったことで貨物の汚損・損傷も激減したことで、荷主に対する補償料も減らすことができました。また、輸送許容量が増加したことで、利益も増加します。
しかし、貨物の輸送量は増える一方でした。実際、関門間の貨物輸送は、下関ー門司間ではなく、下関の竹崎と門司市の小森江で貨車の積み卸しをしていました。この航路を関門航路とは別に関森航路と指すことがあります。
はじめはレールを敷いた艀に貨車を積み込んでいましたが、やがて下関と小森江に可動橋を設置し、本格的な車両航送ができる車両渡船を建造し、多くの貨物を輸送できるようになりました。
しかし、いずれは関門航路の車両渡船では、増加の一途を辿る貨物輸送を捌ききれなくなることは容易に予想できていました。
そこで、当時の鉄道院は関門間の輸送力の増強と、速達性の向上をするため、連絡船によらない鉄道の直接乗り入れを計画します。とはいえ、関門海峡は日本でも有数の交通量がある海峡であり、しかも狭隘な地形のため海流も激しいところがあるなどの課題がありました。
鉄道院は土木工事の専門家に、橋梁を架ける案と、トンネルを掘削する案の調査研究を依頼しました。そして、橋梁を架けるよりも、トンネルを掘削する方が鉄道の運行にとって有利であることなどを理由に、最終的には関門海峡の下にトンネルを建設することになりました。
もっとも、大筋が決まったからといって、すぐに「はい、では始めましょう」となならず、予算の承認でも、ルートの選定でも紆余曲折を経ることになります。こうしたあたりは今も昔も変わらずです。
1910年の調査開始から26年が経った1936年に、鉄道省は予算承認を得たことで、関門トンネルの工事に着工しました。
関門トンネルのほとんどは、普通開削と呼ばれる方法で工事が進められました。
しかし、関門トンネルの工事中には日中戦争が勃発。日本は戦時体制下に入ったことで、軍部からの強い要請もあってトンネル工事は最優先のものとなりました。そして、様々な感官を乗り越えて、1941年7月に下りトンネルによる単線での開通に漕ぎ着けました。
工事の着工から6年の歳月をかけましたが、当時の技術水準からすると、非常に速い艦船だったと思われます。
▲関門トンネルの開業により、通過する列車に合図を送る当時の門司駅長。(撮影者不明 / Public domain Wikipediaより引用)
3.関門トンネルの直流電化
関門トンネルの開通により、連絡船に乗り換えたり貨車を積み卸ししたりする手間がなくなり、輸送力と速達性の向上が期待されていました。
一方で、山陽本線も鹿児島本線も、この当時は電化はされてなく、列車は蒸機牽引によるもものでした。
しかし鉄道省は、この蒸機を海底トンネルである関門トンネルに直接乗り入れることはせず、関門間だけは直流電化で開業させました。
直流電化で開業させた理由としては、
(1)海底トンネルであり、万一機関車故障などでトンネル内に立ち往生した場合などで、燃料である石炭の燃焼で酸欠になったり火災になったりすることが憂慮される
(2)常に海水が漏洩する環境なので、燃料を燃焼させることで走る蒸機がこれを被ると、火が消えてしまうことが憂慮される
(3)トンネル取付部は連続20‰の急勾配であり、蒸機による運転では大量の煤煙を吐き出し、乗務員の酸欠事故につながる恐れがある
(4)この急勾配では、蒸機での0km/hからの引出に不安がある
などで、いずれにしても関門トンネルの環境を考慮すると、機関車を付け替えてでも蒸機による運転は選択肢はなかったのです。
(次回・海峡下の電機の系譜(Ⅱ)へつづく)