都心部から郊外へ進出する通勤形電車
103系電車はこのように、増える一方の通勤・通学のお客さんを、できるだけ多く、そして早く、効率よく運ぶためにつくられ、混雑の激しい路線へ次々に投入されていきました。もちろん、103系電車はその設備と性能を発揮し、国鉄の期待通りの活躍をすることになります。
前回までは
東京や大阪を中心とする大都市圏の主要路線への投入が一段落し始めた頃、国鉄はその周辺部で混雑の激しい路線に目を向けるようになりました。そして、それは単に混雑の解消だけではなく、一緒にスピードアップも目論んでいました。
1968年10月のダイヤ改正で、大阪の天王寺から和歌山駅(当時は東和歌山駅)の間を走る阪和線の快速列車に、なんと103系電車が使われたのでした。この当時、阪和線もまた沿線の人口が増加し、ラッシュ
▲首都圏や京阪神の中心部を走る路線に配置されていた103系電車は、郊外へと延びる比較的距離の長い路線へも進出し、旧型電車を置き換えていった。阪和線もその一つで、沿線の開発による人口増と利用者数の増加を見込むとともに、快速列車運転によるスピードアップが103系電車によって行われた。(©IWWI111 Wikimediaより)
時間帯の混雑も年を追うごとに酷くなっていたといいます。これに加えて、沿線で大規模再開発も計画されていたことから、できるだけ多くの乗客を捌くことができる車両として、103系電車が選ばれたということです。
一方、同じ阪和線でも鳳駅-東羽衣駅間の支線はというと、変わらず旧型電車が3両編成で行ったり来たりしていました。本線は新しいスカイブルーの103系電車が走っているのとは対照的でした。
1977年に阪和線に103系電車が追加でやって来た時、支線の旧型電車はその役目を終えました。さすがに古い電車だったので老朽化も進んでいたこともあるでしょうが、やはり本線は新車なのに支線は老朽車では、整備をするにも手間もかかってしまいますし、何よりランニングコストがかかるのは無視できません。
新たに追加で増備された103系電車には、この支線用として3両編成となって送り込まれたものがありました。激しくなる一方の混雑を解消し、多くのお客さんを捌くために登場した103系電車は、最大で10両編成を組んでいることが当たり前だったのが、なんと真逆の最小で組むことができる3両編成だったのです。これもまた、103系電車にとっては初めてのことでした。
この3両編成という短い編成を組むという芸当は、通勤形電車ではこの103系電車と先輩格である101系電車にしかできないものでした。後年、鶴見線で101系電車の仕事を引き継いだ103系電車は、特に手を加えることなく3両編成を組んで走っていましたが、これをステンレス車体をもつ205系電車に置き換えるときには、中間の電動車に運転台と前面を取り付ける「先頭車化」の改造をしなければなりませんでした。言い換えれば、ある程度柔軟な使い方ができたのも103系電車の持ち味だったといえるでしょう。
▲103系電車は1963年の製造開始後はモーターを装備した先頭車(制御電動車)のクモハ103形が設定されていた。そのため、最小で3両編成を組むことができ、輸送量の少ない路線でも改造をすることなく走ることができた。鶴見線もその一つで、101系電車からその任を引き継いだときもそのままの姿で走り続けた。(筆者撮影)