旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 101系が走っていた頃 1980年代の浜川崎支線【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 小学校5年生の社会角の学習では、日本の産業について学習をします。その学習では、多くの場合「実物を見て学ぶ」ということで、工場見学を設定して出かけることがあります。今では様々な理由から、貸切の観光バスをチャーターして、子どもたちはそれに乗って学校から見学をする向上まで往復をします。

 かく言う筆者も、仕事でこうした工場見学の引率をすることがありますが、ご多聞に漏れず貸切バスでのお出かけです。引率をする立場からすると、貸切バスは非常に楽です。それは、肉体的にもそうですが、公共の交通機関を利用すると子どもたちの安全確保のために、非常に神経を尖らせるものなのです。それだけ、社会の状況が大きく変化してしまったことの証左とも言えます。

 もちろん、筆者個人の考えとしては、貸切バスに乗ってドア・ツー・ドアで出かけるよりは、公共の交通機関を利用して移動するほうが学ぶことも多いので、できればこうした経験を小学生のうちにさせたいものです。

 筆者が子供の頃は、どちらかというと貸切バスででかけるよりも、公共の交通機関を利用して社会科見学などの校外学習に出かける機会が多くありました。それにはいくつかの理由が考えられますが、一つは世の中が今ほど物騒ではなかったということかもしれません。学校の名札をつけたままでも平気で外出していましたし、授業が終わって帰宅してからも名札はつけっぱなし、そのまま外で遊ぶことも当たり前でした。もちろん、子どもを狙った犯罪は多くなかったので、そうしたこともさしたる問題にもならなかったのでしょう。

 もう一つは経済的なことが挙げられます。筆者が育った地域は、けして経済的に余裕があるとは言えない家庭も多くありました。貸切バスは運賃が高いため、一度出かけるとその負担は大きなものでした。そうしたこともあって、1クラス40人、それが6クラス240人という大所帯でも、当時の教員たちは公共の交通機関を使って校外学習に引率したのでしょう。

 さて、筆者が小学校5年生のとき、社会科見学で川崎市の臨海部にある日本鋼管(現在のJFE)に見学に行きました。日本鋼管鶴見線南武線浜川崎支線の浜川崎駅が最寄りで、そこへは朝早くから学校に集まり徒歩で南武線の駅まで行き、朝のラッシュ時にもかかわらず川崎行きの列車に乗り、尻手駅まで行くと浜川崎支線に乗り換えました。

 当時も今も浜川崎支線は大きく変わっていません。横浜市にある尻手駅から川崎市のある浜川崎駅までわずか4.1kmの支線で、途中八丁畷駅川崎新町駅があるだけの短い路線です。しかも、横浜市川崎市という大都市の中を走る通勤路線でありながら、なんと尻手ー八丁畷間は単線という、なんともローカル色満載な路線です。もっとも、これは旅客線としての話で、貨物輸送となると話は別です。この浜川崎支線に並行して、東海道貨物支線も走っています。東京貨物ターミナル駅発着の貨物列車で、武蔵野線方面を結ぶ物流の重要な路線でもあるのです。

 

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浜川崎支線用としてクモハ100クモハ101McMc'ユニットを組んで活躍していた101系。1984年頃には、本線用の101系の中には冷房化改造を受けたり、前灯をシールドビーム2灯化改造(いわゆる「ブタ鼻」改造)を受けた車両や、一部に103系も入ってきていたが、支線には相変わらず非冷房、前灯が原型の白熱灯1灯の車両が頑張っていた。列車が停車する尻手駅は高架駅なので、ホームから街の様子がよく見えるが、周辺には2階建ての住宅が立ち並んでいて、今日のように高層化したマンションの姿はほとんどなく、当時の町並みを知ることができる。ホームの案内表示も、民営化後の横長のものではなく、小型の必要最小限の案内が表示されているのみで、こうしたあたりにも国鉄っぽさが垣間見える。(尻手駅 1984年5月7日 筆者撮影)

 

 日本の物流における動脈の一つでもある浜川崎支線、旅客列車は先にもお話したように、本線を走る列車が6両編成であるのに対して、こちらは僅か2両編成です。しかも、朝夕の通勤時間帯は別として、日中は1時間に1〜2本しかないなど、およそ100万都市を走る鉄道とは思えません。

 列車が運転される本数が、朝夕と日中で極端に違うのは、浜川崎支線が走る地域の特色が色濃く出た結果と言えます。川崎市横浜市北東部の臨海部は、日本でも有数の工業地帯である「京浜工業地帯」と呼ばれ、石油精製所や製鉄所、そして首都圏の電力を賄う火力発電所など、重工業が盛んな地域です。

 当然、これらの事業所で働く人々は、川崎駅から路線バスに乗っていくか、この浜川崎支線を使って通勤をしています。ところが、沿線には住宅地も数多くありますが、この地域に住む人々は都心部となる川崎駅へは路線バスを利用するか、自転車に乗っていくかなので、浜川崎支線を利用する人はさほど多くありません。ですから、昔から通勤輸送に特化したダイヤが組まれているとともに、通勤で利用する乗客も沿線の限られた工場などに通うため、本線ほどの輸送量はないため2両編成でも需要が満たせるのです。

 この浜川崎支線を走る車両は、筆者がまだ小学校に通うようになった頃はまだ旧型国電が主役で、クモハ11とクハ16のコンビが短い路線を往復していました。やがて南武線に申請農家の波が押し寄せてくると、本線は山手線や中央線から押し出されてきた101系が主役に代わり、浜川崎支線も同じように101系に置き換えられていきます。

 

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101系の投入による新性能化以前は、本線を含めて多種多様な旧型国電南武線を闊歩していた。本線は主に20m級の車体を持つモハ72系がほとんどであったが、中には17m級の車両も連結されているなど、「あるものを」最大限に活用していたようだった。一方、浜川崎支線は輸送密度が朝夕と日中とで極端に異なることと、利用者も周辺の工場などに勤務する人がほとんどだったため、17m級の車体を持つクモハ11とクハ16の2両編成が充てられていた。(出典:Wikimedia Commons ©h-tori, Public domain)

 

 ところが、先程もお話したように浜川崎支線は2両編成でも需要が満たせます。旧型国電は基本的には電動車1両単位で運用できますが、101系はMM'ユニットが採用されているので、電動車は必ず2両1組にしなければなりません。そして、2両編成なのでどちらも制御電動車でなければならないという条件ができてしまいます。

 そこで、浜川崎支線で運用される101系は、クモハ100クモハ101、すなわちMc+M'cという、短いながらもすべて電動車で組成される「全電動車編成」でした。もともと101系は、出力100kw/hのMT46を主電動機に採用した国鉄初の新性能電車で、その性能をいかんなく発揮するためには組成される車両はすべて電動車である必要がありました。しかし、101系を中央線快速で運用してみると、全電動車であることで消費電力があまりにも大きく、当時はまだ経済的にも復興途上であったことなどから電力設備も貧弱だったため、結局は性能を抑えるためと製造コストを下げるために付随車を組み込んだ結果、所期の性能を発揮できず、それまで運用されていた旧性能電車であるモハ72系とあまり変わらないものになってしまったのでした。言い換えれば、持てる性能を抑え込まれて平凡なものにさせられ、更には後継となる103系や201系などに仕事場を早々に追われた「悲運の電車」ともいえるでしょう。

 その結果、首都圏に残存していた旧型国電を一掃するために、モハ72系などが配置されていた首都圏近郊の車両基地に配転され、そのうちの一つが南武線中原電車区(現在の鎌倉車両センター中原支所)でした。

 

《次回へ続く》

 

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