旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【23】

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大阪湾に沿って紀州路へとつないだスカイブルーの103系【後編】

 阪和線103系電車は、1987年の国鉄の分割民営化までは大きな変化もなく、大阪と和歌山の間を行き来する仕事を続けました。

 ところが、JR西日本に替わった翌年の1988年には、205系電車がやって来ました。103系電車が身に纏うスカイブルーと同じ色を帯にしたステンレス車205系電車は、国鉄時代に設計・新製された通勤形電車です。阪和線に送り込まれた205系電車は1000番台を名乗るJR西日本が独自の設計を加えたもの。国鉄時代や民営化後のJR東日本がつくった205系電車とは、少しばかり違う電車でした。

 この205系1000番台電車、最高運転速度は120km/hとした仕様になりました。JR西日本のお家事情とでもいいましょうか、民営化後1年目にしてすでに高速運転を志向した電車をつくり出していたのでした。

 こうして送り込まれた205系電車は、阪和線の快速列車をはじめとした運用に就きます。とはいえ、遠く東、関東の地のように205系電車をもって103系電車を置き換えるというのではなく、阪和線の輸送力を強化するために送り込まれたので、しばらくの間は103系電車も一緒に阪和線を走り続けます。

 阪和線103系電車に大きな転機が訪れたのは、1994年の関西国際空港の開港でした。それまで関西の空の玄関口は大阪駅の北、大阪府豊中市兵庫県伊丹市に跨がる大阪国際空港でした。市街地のど真ん中という立地は、利用者のアクセスはよくても住民にとっては、騒音に悩まされ続け生活を脅かす存在でしかありませんでした。

 その騒音問題を解決し、さらに空港としての機能を向上するために、大阪湾を埋め立ててできたのが関西国際空港でした。そして、関西国際空港阪和線日根野駅が最も近いため、この駅から分岐して関西国際空港へと接続する関西国際空港線を開業させました。

 このことにより、阪和線から関西国際空港へと直通する空港連絡列車となる関空快速の運転も始められました。

 関空快速の運転開始により、それまで国鉄形車両のほぼ独壇場だった阪和線に、新たに造られた223系電車が送り込まれてきました。関空への直通列車は103系電車などの国鉄時代から走り続けている古豪ではなく、真新しい223系電車の仕事となりました。

 こうして、阪和線にも民営化後に設計・製造された車両が入ってきました。

 とはいえ、新鋭車両の223系電車は、暫くは関空快速の仕事だけをこなし、他の普通列車や快速列車といった仕事は、変わらず103系電車の仕事として残っていました。

 しかし、年を追うごとに103系電車の老朽化は進み、そして設備も時代遅れになるいわゆる陳腐化も免れなくなりました。そうはいっても、最新の新車に置き換えるということは、JR西日本が抱える諸事情ですぐにも実現することは難しい状況が続きました。

 そうこうするうち、年はどんどん流れていき、2010年代に入っても様々な手を加えられながらも103系電車は健在でした。快速列車や関空快速などの速達列車の仕事はないものの、普通列車205系電車とともに103系電車が活躍する大舞台でした。

 しかし、それも永遠に続くというものではありません。
 いつかは後輩にその任を譲って、去りゆかなければなりませんでした。ですが、それを許されるようになったのは、2016年まで待たなければなりませんでした。

 ようやく103系電車が担っていた阪和線の仕事を次の世代に渡せるようになった2016年、最新鋭の225系電車が阪和線に送り込まれてきます。快速用にやって来た223系電車を改良した電車は、乗降用の側扉が4ドア、座席はロングシートという103系電車に対し、側扉は3ドア、座席も転換クロスシートという関西圏では一般的な設備をもち、接客設備のサービス改善にもつながり、阪和線の面目もようはく向上したといえるでしょう。

 こうして225系電車がぞくぞくと送り込まれてくるのと入れ違うように、スカイブルーを身に纏った103系電車は徐々に姿を消していきました。そして、2018年には最後まで走り続けた羽衣支線での仕事も後輩の225系電車に引き渡し、ついにその活躍しつづけてきた歴史に幕を下ろしました。

 1968年に配置されて以来、実に40年にもわたる阪和線での活躍は、東西問わず他の路線が後継となる車両に置き換えられていったのを横目に、103系電車の中でも最も長いものとなりました。