旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【20】

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首都圏の国鉄形の牙城・南武線鶴見線を走ったカナリアイエロー【前編】

 首都圏を走った黄色の103系電車で、もう一つ語らなければならないのが南武線鶴見線でしょう。

 南武線は神奈川県の川崎駅から東京都の立川駅を南北に結ぶ通勤路線ですが、もともとは南武鉄道という私鉄を、第二次大戦中に買収により国有化した路線です。 鶴見線は同じく神奈川県の鶴見駅から、京浜工業地帯を縫うように走る路線です。南武線と同じくもともとは私鉄でしたが、やはり戦時中に買収されて国有化しました。


前回までは 

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 どちらももともとが私鉄ということだったのでしょうか、それとも主に神奈川県内を走るというためだったのでしょうか、国鉄の通勤路線の中でも配置される車両は山手線や中央線などで使われた古参の車両たちばかりで、彼らが最後のお勤めをする仕事場となっていました。

 それ故に、南武線を走る車両たちの住処である中原電車区は、「首都圏国電の墓場」と揶揄されていました。鶴見線の住処である弁天橋電車区(現在は中原電車区鶴見線営業所)も同じようなもので、首都圏で最後まで旧性能電車の72系電車が走り続けていました。

 この二つの路線が新性能化されたのは1980年、103系電車に押し出されてきた101系電車が中原と弁天橋にやって来たことから始まります。中央線快速に101系電車が颯爽と登場したのが1957年ですから、23年も経ってやっと新性能電車がやってきたことになります。

 もちろん、この頃は既に101系電車の製造は終わっていましたから、新車ではなく都心部で使い古された中古車たちでした。彼らは都心部の第一線から外され、最後の安住の地として中原や弁天橋にやってきたのでした。

 

f:id:norichika583:20180623205427j:plain▲首都圏で最も最後まで101系電車が配置された南武線鶴見線は、民営化後になって103系電車が配置されたことで、ようやくその役目を終えた。写真の浜川崎支線は103系電車に移行することなく、205系電車によって置き換えられて2003年に退いていった。(尻手駅 1984年筆者撮影)

 

 黄色に塗られた101系電車たちでしたが、多くは冷房装置を装備してない車両たちでした。一部は冷房化改造を受けていたものもありましたが、国鉄にとって南武線鶴見線は二線級、いえ三線級だったのでしょうか、非冷房車に冷房装置を載せる改造もあまり積極的には行われませんでした。
 ですから、夏の暑い日に駅で列車を待っていると、ほとんどは冷房のない車両ばかりで、たまに冷房車が来ればその日は幸運、ラッキーといった具合でした。

 一般のお客さんの目からも、南武線鶴見線の冷遇ぶりは目に余るものがあったようです。

 もちろん、そのままでいいはずがありません。

 国鉄としてもどうにかしなければならないことは分かっていましたが、優先させなければならないのは東京都区内に乗り入れる路線で、他に手を回す余裕はありませんでした。
 それでも、精一杯の対応として、1982年に103系電車を中原に送り込みました。といっても、もちろん新車ではなく、101系電車と同じように都心部から追われた中古車でした。
 この中古車、いえ103系電車は101系電車のように、ただ最後の安住の地を求めてやって来たのではありませんでした。この103系電車たちは、冷房装置を載せる改造工事を受けてから中原に送られてきたのです。
 こうして、冷房装置をもたない101系電車を置き換えるために、冷房改造を受けた103系電車たちがやってきましたが、そのスピードはとにかくゆっくりとしたもので、民営化までに南武線を走る車両の半数を満たすか満たさないかでした。