旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 別れ別れになった兄弟たち【5】

 需要が増えればそれに応えて列車を増発しなければなりません。しかも、できれば高速で、1列車あたりの連結両数も多ければ多いことが望まれます。そうなると、手持ちのEF66形では足りず、かといってEF65形では力不足も予想されます。EF66形登場前夜の特急貨物列車のように、EF65形を重連で牽くこと考えられるでしょうが、機関車1両あたりいくら、貨車1両あたりいくらという線路使用料を旅客会社に支払う貨物会社にとって、重連で牽かせることはランニングコストの増加を意味するので避けたいところです。


前回までは

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  そこで考えたのは、EF66形を再び増備するということでした。
 もちろん、最初の設計がされた1966年から23年も経ち、その間に技術の進歩や法令や規則が変わっていたため、そのまままったく同じ機関車を製造するというわけにはいきません。基本設計はそのままにしながら、一部の機器を新たな規制や有害物質をなくしたものへ変更するなどをし、新たな兄弟となる100番台を製造しました。

f:id:norichika583:20180428175748j:plain▲民営化後に製造されたEF66形100番台。基本設計などは国鉄時代に製造された0番台の図面などを流用しながら、時代の流れに合わせた(特に法令で使用ができなくなった有害物質を含むもの)機器類に変えてある。前面の意匠も0番台とは異なり、直線と曲線を組み合わせたシンプルなものにしながら、機関士からの視野を拡大している。従来、国鉄形電機は運転台に冷房装置などなかったが、100番台からは冷房装置が設置された。

 この100番台は車体デザインも変更され、あの「こだま形」特急電車の意匠を変形した独特のデザインから、比較的簡素でありながら前面窓の面積が大幅に広げられ、機関士の視界を向上させたものになりました。
 もちろん、塗装も国鉄時代から直流機の標準職とされていた青色15号+クリーム色から、ライトパープルと濃淡ブルーを組み合わせたJR貨物の標準色に変わり、一見すると同じEF66形とは思えないような車両になりました。
 こうして、新たな兄弟である100番台33両が加わり、EF66形は総勢で88両へと拡大していきます。もちろん、貨物会社に所属する車両たちは東海道山陽本線高速貨物列車を中心に、首都圏では一部の石油輸送列車、さらには紙パルプ専用のワム80000形で組成された専用貨物列車の先頭にも立ちます。一方、旅客会社の15両は、変わらず寝台特急列車の先頭に立ち続け、長距離を走り続けるという過酷な運用に就き続けました。
 さすがに寄る年波には勝てなくなってきたのでしょう、製造から20年以上も経ち、しかも重量列車を高速で、長い距離を引き続けるという運用はかなり過酷なものでした。できれば新車に置き換えたいところですが、後継機の開発は思った以上に難航していたことや、バブル経済崩壊で貨物列車の需要も減少していた時期に、新車をさらに造るというのは台所事情を考えると難しい話でした。
 そこで、貨物会社は1993年からEF66形を延命する更新工事に取りかかりました。機関室内の機器の交換はもちろんですが、細かいところでは扉のステンレス化や、EF66形の特徴ともいえた正面ナンバープレート周りの装飾の撤去、さらには100番台と同じ明るいカラーリングの塗装が施されました。
 こうして貨物会社のEF66形の一部はリフレッシュして、引き続き高速貨物列車を中心とした運用に就き続けます。

f:id:norichika583:20180428180032j:plain▲機器類などを交換して延命工事が施された更新機である29号機。製造から30年以上が経過し、日常的に長距離・高速運転を強いられてきたため老朽化が進んでいたが、新型機へ置き換えるには財政上の理由などで今暫くは時間が必要だったための措置だった。塗装も更新機とわかるように100番台に準じた貨物標準色になり、運転台屋上には冷房装置が設置された。正面の飾りは保守の簡略化のため取り外されたため、塗装と相俟って少しばかりのっぺりした印象だった。(© DAJF Wikimediaより)

 一方、旅客会社のEF66形はというと、時代の流れとともに寝台特急列車の利用が減少したことと、客車の老朽化などもあって徐々に本数が減らされていきました。つまりは、花形の仕事だったものが、利用者の減少などにより減らされてしまったのです。
 民営化直後、下関には15両のEF66形が残りました。しかし、民営化からたった7年の1994年のダイヤ改正で、東京-九州間の寝台特急が2本も廃止になり、下関のEF66形は一部の仕事を失いました。それとともに、15両は多すぎるとういうことなのか、41,44,52,54号機の4両が貨物会社へ移籍します。長年住み慣れた下関を離れ、大阪の吹田へと住処を移し、しかも会社も変わって仕事も変わるというのはある意味「転職」したようなものにも見えます。
 その一方で、翌年からは廃車も始まってしまいました。下関に残った車両は1973年から製造されたグループなので、1995年に廃車となれば、製造から30年を経っていません。旅客会社に引き取られ、貨物列車を牽くことに比べれば比較的負担の少ない仕事が多く安泰にも見えたのが、貨物会社へ行った兄貴分たちの方が大活躍をするというのはなんとも皮肉なものでした。
 もちろん、貨物会社の車両たちも延命工事をを受けているとはいえ、いつまでも安泰というわけにはいきません。とはいえ、後継機の製造と増備は、当面は先輩であるEF65形の置き換えに回され、EF66形は高速貨物列車を牽く仕事もこなしながら、EF65形が担っていた比較的短距離の列車も担当します。中には東北本線黒磯駅まで出向く運用もあり、国鉄時代では考えられなかった場所へも出向くようになりました。
 後継機の製造が軌道に乗ってきたこともあって置き換えも始まりますが、それは2001年からでした。この年、長兄である901号機がついに役目を終えて廃車になりました。1966年から35年間、過酷な仕事を続けてきた機関車としては比較的長寿の方といえるでしょう。
 この901号機の廃車を皮切りに、毎年数量ずつが御役御免となり廃車されていきました。中には延命工事を受けた車両もあったことから、30年以上の長きにわたるEF66形の仕事は、想像以上に車両の老朽化を進行させる過酷なものだったと想像できるでしょう。
 この頃になると、EF66形、その中でも今回取り上げている0番台は、一部から「ゼロ・ロク」という愛称で呼ばれるようになりました。それだけこのEF66形という機関車は、特別な存在といえるのでしょう。もっとも、様々な貨物を運び、あるいは多くの人を乗せて走る機関車は、そのどれもが必要不可欠な存在なので、少なくとも私が知る現場の人たちは特別扱いはせず、変わらず「ロクロク」と呼んでいるようです。