2009年のダイヤ改正で、ついに東京-九州間の寝台特急列車は長い歴史幕を閉じました。それと同時に、下関の車両たちは定期の運用を失います。仕事を失った車両たちは当然余剰として扱われ、10両のうち8両がその年に廃車となりました。1986年に花形の運用を手に入れてから23年間続けてきた寝台特急の先頭に立つ仕事がなくなり、さらに翌2010年には最後まで下関に残った2両が廃車され、1968年からいた下関のEF66形は姿を消してしまいました。
前回までは
旅客会社のEF66形が消滅してしまった頃、貨物会社のEF66形も老朽による廃車が進行していました。この2010年は貨物会社でもEF66形の廃車はピークを迎えていたようで、この年だけで10両以上が廃車となってしまいます。
その後も廃車は進んでいき、総勢55両もいたEF66形の0番台は、2018年にはついに27号機の1両が運用されるのみとなってしまいました。
この27号機は「ニーナ」なる愛称で呼ばれていて人気のカマのようですが、やはり東海道・山陽本線の高速貨物列車「スーパーライナー」の先頭に立って、物流の大動脈を担った勇壮な姿を思い浮かべると、27号機はやはり「ロクロク」であり、他の「ロクロク」と同じく貨物輸送の貴重な戦力だったといえます。
1000トンの重量列車を100km/hで運転するという、当時としてはとてつもない構想を実現するべく、先輩たちをはるかに凌ぐ強力なパワーを与えられて登場したEF66形。
そのフォルムもまたそれまでの国鉄電機の常識を破り、見るからにもパワーの溢れる印象を与え、日本の大動脈といえる東海道・山陽本線の貨物輸送で重要な役割を果たしてきました。そして、その目的は達成できるどころかさらに向上され、1200トン列車、さらには運転速度も100km/hから110km/hへと引き上げられ、文字通り過酷なまでの運用をこなし続けながら、私たちの生活をも支え続けてくれました。
特急貨物列車用、後に高速貨物列車用としての役割を与えられ続けたEF66形は、貨物用機であるが故に人目に触れることこそすくないものの、その世界では花形運用の列車の先頭に立ち続けましたが、名実ともに寝台特急列車の先頭に立つという花形運用も手に入れました。
一方で、兄弟たちは二つの会社に引き取られ、それぞれ別々の人生を歩むことになります。仕事もまったく異なる客車列車と貨物列車を牽くということ、EF66形にとっていったいどちらがよかったのか、それは機関車たちのみが知るところでしょう。
しかし、同じ機関車同士だからこそ、助け合える場面も多々ありました。
実際に、私が九州から乗車した東京行きの寝台特急「はやぶさ」が、浜松駅を通過したあたりで突然停車。原因は先頭に立っていた下関のEF66形が車両故障を起こしてしまいました。減っていたとはいえ、それなりの数の乗客が乗った長距離列車をそこで運転打ち切りをするわけにはいきません。
そこで、救援の機関車が手配されます。といっても、国鉄時代なら無駄とも思えるくらいにあちこちに機関区が在りました。私が知る限りでも、東海道本線であれば東京、品川、新鶴見、茅ヶ崎、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、稲沢、米原、宮原、吹田…。しかし時代は変わっていて、列車が停まった浜松付近で機関車が配置されているのは名古屋の先にある稲沢ぐらい。しかも、会社も異なります。
さて、どうにかして機関車を回してきて運転を再開することは分かっていましたが、さていったいどうするものかと様子を見ていると、やって来たのは明るいカラーリングを施した延命工事を受けたEF66形でした。同じ兄弟のピンチを、所属する会社は違えども救援にやってきたのでした。そこからは、貨物会社のEF66形がピンチランナーとして寝台特急列車の先頭に立ち、東京まで遅延はあったものの無事にお客さんを送り届けました。
私が体験したこの例だけに留まらず、会社は違えど同じ形式ならばということで、工事によるダイヤ変更時などなど、互いに助け合うような姿は数多くあったと聞きます。
そんないい意味での融通が利くのも、そこは同じ「国鉄形」だからこそ。分割民営化という運命の分かれ道によって、異なる会社で異なる仕事をしていても、どこか兄弟の絆のようなものを感じずにはいられませんでした。
狭軌鉄道最大の出力を誇ったEF66形。
「ロクロク」は先輩格であるEF65形PF形よりも一足先に引退する日もそう遠くないでしょう。とはいえ、貨物列車、旅客列車ともに遺憾なくその性能を発揮し、走り続けたことは鉄道史にしっかりと刻まれるでしょう。