旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

EF510 300番台の増備で置き換えが確実になった九州の赤い電機の軌跡【11】

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《前回からのつづき》

 

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 ED75形300番台は、交流関連の機器を60Hz仕様のものに替えるとともに、0番台にはない装備をもちました。特に正面スカート部には通常の自動ブレーキ用のブレーキコックのほかに、元空気溜め引き通し管用のコック、電磁ブレーキ指令回路用のジャンパ連結栓が設置されていました。これは、20系客車用ではなく、10000系貨車を牽くための装備で、ED75形300番台が貨物用機として設計されていたことを示しています。 

 一方、ED75形0番台などに装備された電気暖房用の装置も搭載されていました。ED75形が本を正せば東北地区用の電機であり、客車の暖房は電気暖房を使うことになっていたため、ED75形はこれに対応した電源(EG)も装備していました。そして、九州は冬季の暖房として蒸気暖房を使用しているものの、300番台ではEGは装備したままで配置されました。 

 300番台の性能は、東北地区向けの0番台と同一でした。主電動機はMT52形直流直巻電動機(425kW)を4個装備し、車両出力は1,900kWとED73形やED72形量産車と同じ性能でした。 

 こうして九州初のシリコン整流器を装備した交流機であるED75形300番台が営業運転に充てられますが、ED73形とほぼ同じ16.8トンという軸重の重さから、運用範囲が九州北部に限定されるといった足枷がありました。 

 

交流電機の標準機となったED75形は、東北本線など50Hz区間での運用を想定していたため、電装品はすべて交流20,000V50Hzに対応したものだった。しかし、九州地区でED73形の増備が必要になったため、東北地区向けのED75形を九州地区向けに改設計、電装品を交流20,000V60Hz対応のものとした300番代を製作、門司機関区に配置した。しかしED73形と同様に軸重が重く、鹿児島本線熊本以南や、日豊本線系統では運用ができない制約があったが、元空気溜め管引き通しなど高速車両に対応する装備をもっていたことから、貨物列車や寝台特急など多彩な運用に充てられた。(©wxrx, CC BY 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 もっとも、ED73形の増備機としてED75形300番台が製造されたことを考慮すると、そのことは運用側でも承知していたと考えられます。ED75形300番台が製造されたのは1965年のことで、同じ年には本格的な九州地区向けに設計されたED76形も製造され始めました。計画が具体化していた頃には、ED76形の開発は進んでいたことや、同時期に製造されることは国鉄で車両設計を担当していた工作局も把握していたと考えるのが自然で、実際に運用を担う門鉄局にも伝わっていたといえるでしょう。それでも、軸重が重く運用に制限のあるED75形300番台を増備したのは、鹿児島本線では香椎操車場、鳥栖駅熊本駅などで機関車の付け替えを、長崎本線では長崎駅まで直通させるか、鳥栖駅で機関車の付替えをするという運用が前提であったといえます。 

 国鉄時代は、寝台特急のような速達性を重視した一部の列車を除いて、機関車の付け替え作業が頻繁に行われていました。機関車を配置する運転区所は要所ごとに設置され、そこに運転区所が担当する範囲での運用を担う機関車が配置されていました。また、機関車に乗務する機関士も、所属する区所の管轄内での運転業務に就きますが、機関区などが多数設置されていたため、その乗務範囲も現在とは比べ物にならないほど短いものでした。そうした運用形態から、使える範囲が限定される機関車でも増備したと考えられます。 

 そのために、必要とする車両の数は必然と多くなり、大量の機関車を保有することになりました。このような方針は、今日では考えられないほど非効率的であり、同時に製造にかかるコストをはじめ、これを保守管理するなど運用コストも多額になるなど、財政事情が火の車の状態になっていった国鉄を苦しめる遠因になったといえるでしょう。 

 ED75形300番台は全機が門司機関区に配置され、九州北部で貨物列車を中心に運用されました。また、ブレーキ増圧装置と電磁ブレーキ回路を装備していたことを活かし、10000系貨車で運行される特急貨物列車、特にレサ10000形を中心にした鮮魚特急貨物列車の先頭に立ち、目立たないものの生活を支える重要な役割を担いました。 

 一方、貨物用機としての活躍の傍らで、客車列車に充てられることもありました。一般形客車は夏季でのみ運用に入ることがあったようですが、暖房用の蒸気発生装置がないため、冬季はこの運用に入ることができないという難点がありました。その点では、運用面で効率が悪いものがあり、現場の担当者は難渋したことでしょう。反面、九州島内を走る寝台特急が14系・24系化されると、これらの列車の先頭に立ちました。ED73形と同様に、九州独自の中華鍋形ヘッドマークを前面に掲げて疾走する花形の仕業を手にしたのでした。 

 九州向けに設計され、汎用的に使うことができるED76形の増備が進むと、先輩格であるED73形が1980年に日本海縦貫線から転入してきたEF70形によって淘汰がはじめられると、ED75形300番台はEF70形とともに、引き続き貨物列車や寝台特急の運用に充てられました。 

 しかしながら、1980年代に入ると貨物列車の削減や客車列車の電車化が進められると運用も減り、機関車に余剰が出るようになっていきました。また、効率的な運用によってコストの削減が進められたことで、さらなる余剰が出てしまいました。 

 こうした中で、軸重の制限から広汎に運用することができないED75形300番台は次第に持て余されるようになり、汎用性が高く広汎に運用することができるED76形の増備や、高速列車に対応したED76形1000番台の登場などによって、ED73形は1982年までに全車が廃車、さらに北陸からやってきたEF70形も1982年以降は遊休化して休車状態になり、もはや風前の灯火といった状態にまで追い込まれていきました。 

 それでも、ED75形300番台は廃車や休車に追い込まれた僚機たちの後を守るように走り続け、国鉄分割民営化を1年後に控えた1986年3月に全11両が一斉に廃車となり、区分消滅していきました。 

 僅か11両という小世帯でありながら、シリコン整流器という扱いやすい整流器と、低圧タップ切替制御と磁気増幅器の組み合わせによる連続位相制御を装備していたことで、特急貨物列車や寝台特急の運用をこなしたED75形300番台は、国鉄末期の九州北部の輸送を支えた存在だったのです。 

 

《次回へつづく》

 

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