旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 数奇な運命を辿った急行形【4】

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 1980年代に入ると東北の急行列車は次々に特急への格上げとともに廃止や削減が続いていきました。そして1982年に東北新幹線が大宮-盛岡間で開業をすると、特急列車のみならず急行列車を含めた長距離列車は大幅に減らされていきました。


前回までは 

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  急行「いわて」や「もりおか」が廃止になった一方、上野発着の「まつしま」は奇跡的に残り、引き続いて5往復が運転されました。かつてはたくさんの急行列車が走り、同僚である急行形電車も多くが活躍していたことに思いを及ばすと、なんとも寂しい陣容になってしまいました。

f:id:norichika583:20180517095308j:plain東海道・山陽新幹線の開業は在来線の特急・急行列車の役割を劇的に変化させ、急行列車は統廃合されていったが、東北・上越新幹線の開業により、上野発の急行列車も同様に統廃合されていき交直流両用急行形電車の活動の舞台がなくなっていった。(©spaceaero2 Wikimediaより)

 1985年には東北新幹線が上野まで延伸すると、ついに「まつしま」「あづま」が廃止となり、こちらでも急行形電車の仕事を失いました。東北内の急行列車も同様で、最後まで残り仙台-盛岡間を走り続けた「くりこま」も1982年には快速列車へと格下げにされてしまいます。愛称こそ残ったものの、快速列車とはかつての栄光を感じさせないようにも思えました。そして、その快速「くりこま」も1985年には廃止されてしまい、東北でも活躍の場が失われてしまいました。
 この当時、新幹線とは当時無縁にも近かった北陸線では少し様相が異なりました。
 1968年の「ヨン・サン・トオ」改正では、他の路線と同じく名称の整理などが進められ、「加賀」や「奥能登」といった列車は「ゆのくに」に統合されたほか、「立山」「越後」といった急行列車が走っていました。これらの列車はいずれも大阪など関西から金沢、富山などの北陸地方の都市を結んでいました。その一方では特急「雷鳥」をはじめとする特急列車も次々に増発されていき、急行列車はその隙間を縫うように走り、「雷鳥」などの特急列車を補完しながら旺盛な需要を捌く列車として北陸路を走り続けます。
 1970年には観光シーズンに限られてはいましたが、大阪-富山間を走る「立山」が、富山から富山地方鉄道線へ乗り入れるようになり、立山まで延長されました。まさに、列車名そのままに立山連峰への観光客を輸送する列車となり、ビジネス需要だけではなく観光需要にも応えた形になりました。
 その後も特急「雷鳥」の増発は続くものの、定期列車としての「立山」「ゆのくに」は存続強いました。一方、季節列車として設定されていたこれらの急行列車は特急に格上げして「雷鳥」に統合されるなど、いよいよ北陸の急行形電車も雲行きが怪しくなり始めます。
 山陽・九州や東北などと異なり、新幹線開業の影響を受けずに走り続けた北陸線の急行列車も、1975年に大きな転換期を迎えました。従来は大阪発着の列車は東海道線を東進して米原へ出て、そこから北陸線へと入る経路を走っていました。しかし、米原経由では走行距離も伸びて遠回りになるなどのしていたので、山科から近江塩津までを琵琶湖の西岸を走るバイパス線として開通し、関西-北陸間の優等列車のほとんどが湖西線経由に改められます。

f:id:norichika583:20180517095454j:plain▲北陸地区を走る急行「立山」は、大阪-富山間を米原経由で結ぶ急行列車で、北陸線急行としては最長距離を走っていた。最盛期には糸魚川富山地鉄に乗り入れて立山宇奈月温泉といった観光地への輸送も担った。北陸地区は新幹線の影響を受けることはなかったが、国鉄の増収政策の一環として急行列車の特急格上げが相次ぎ、やがて「雷鳥」に統合されて消えていく運命だった。(©spaceaero2 Wikimediaより)

 しかし、急行列車の「ゆのくに」「立山」「越後」は米原経由のままとされました。言い換えれば、特急「雷鳥」などが湖西線経由となったことで米原を通らなくなったため、 これらの急行列車は山科以東の東海道線米原近江塩津間の北陸線を利用する人たちにとって貴重な優等列車となりました。
 しかし、北陸線の急行列車も安泰とはいきませんでした。1978年に「ゴーサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正が実施され、七尾線に乗り入れていた「ゆのくに」「越後」が廃止になり、大阪-金沢間を結ぶ1往復にまで削減されます。
 1982年には「立山」の2往復が「雷鳥」へ編入、「雷鳥」は18往復になる一方、「立山」は夜行列車として臨時列車となり、「ゆのくに」も廃止になったことで、北陸線を走る昼行の急行列車はなくなってしまいました。そして、国鉄の急行列車廃止の方針は変わることなく、1985年には他の路線と同様に夜行で残った「立山」も廃止になってしまい、急行形電車の本来の仕事をすべて失ってしまいました。