旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 房総特急華やかし頃・1985年東京駅地下ホーム【1】

広告

 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがようございます。

 東京駅のホームは今も昔も数多くあり、首都東京の中心となる鉄道駅であることは変わりません。かつて国鉄時代は、まさに全国各地にある駅の「最高峰」であり、ここに勤める職員もまた管内から選りすぐりの人たちが集まっていたと思われます。当然、駅長は単なる現場長ではなく、駅長の中の駅長、まさに最高峰の駅に勤めるのに相応しい人材が選ばれ、別格の扱いだったと聞いています。それは民営化後もほぼ同じで、東京駅の駅長はJR東日本の取締役をも務めるそうで、それだけ伝統と格式の高い駅の証左だといえます。

 ホームもまた、時代とともに変化はしていますが、中央線快速、山手、京浜東北東海道は地上ホーム、横須賀と総武快速は地下ホームという陣容でした。これに加えて、東海道新幹線も地上に設けられ、国鉄時代だけでも膨大な数の列車がひっきりなしに発着していました。

 民営化後、東北・上越北陸新幹線のホームができ、地下には京葉線のホームがつくられました。こう書くだけでも相当な本数のホームがあり、しかもその範囲は同じ駅なのかと言いたくなるほど範囲が広いので、場合によっては乗り換えに時間がかかってしまうので気をつけなければなりません。

 さて、写真は1985年の東京駅総武横須賀線ホームで撮影したもの。183系で運転されていた「しおさい」と「わかしお」が写っています。

 

f:id:norichika583:20210214003158j:plain

 

 「しおさい」は、東京から総武本線を経由して銚子まで運転されている特急列車です。東京と房総各線を結ぶ特急列車は数多く運転されていた時代で、その中でも「しおさい」は総武本線のみを走り、千葉県の最東端まで至る列車でした。多くの房総特急が減便ないし廃止された中で、「しおさい」は今日も運転され続けています。

 もともと「しおさい」は、房総各線で運転されていた急行列車群の一つである「犬吠」でした。1958年の運転当初は準急列車でしたが、使用車両はなんとキハ25を充てられました。当時の房総各線は非電化で、数多くのそして種々色々な形式の気動車が運用されていましたが、当時は戦後復興の真っ只中で国鉄は輸送力増強を進めていましたが、準急用気動車であるキハ55系を房総準急に回す余裕がなかったのか、それとも比較的短距離の運転だったためか一般用気動車を充てたのでした。

 その後名称をいくつかに変えた後、佐倉より東を総武本線経由で銚子に向かう列車を「犬吠」とし、成田線経由で運転される列車を「水郷」としました。この時点で、後に総武本線の特急列車群につながる基礎ができたといえます。

 やがて1966年に運転距離が100kmを超える準急列車をすべて急行に格上げとする国鉄の製作により、「犬吠」もそれに該当することから急行列車へと格上げになりました。しかしこの時点でも房総各線は非電化のままでしたが、既にこの頃には急行用気動車であるキハ58系が充てられていて、電化区間の急行列車と遜色のない車両で運転されていました。

 房総各線の電化工事は比較的遅く、1968年に千葉-佐倉-成田間の電化が完成しました。しかし成田以東は1974年の完成まで待たなければならず、「犬吠」も気動車による運転のまま続けられました。

 総武本線の全線電化が完成すると、それを待っていたかのように「犬吠」の5往復を特急へ格上げとして「しおさい」を設定、同時に特急形電車である183系による運転へと替えられました。一方、国鉄の末期に見られた急行全廃の上特急格上げというのではなく、2往復については急行のまま残され、使用車両を153系と165系に置換えて電車化したのでした。

 しかし、素手のこの頃の総武本線のダイヤは逼迫した状態になり、特急へ格上げとなったものの、運転速度は大幅に向上することができず、所要時間も急行と大差がなかったことで、特急への格上げに名を借りた料金値上げだと、利用者からはあまりいい評判を得られなかったようです。*1

 とはいえ、「しおさい」は総武本線を走破する特急列車として定着していき、1982年には残存していた「犬吠」を特急格上・吸収する形でそれまでの5往復に加えて2往復増発させました。さらには新宿発着の「しおさい」を設定するなど、利用者の利便性を向上させる取り組みもみられました。

 国鉄分割民営化により総武本線JR東日本の管轄になりましたが、「しおさい」は大きな変化はありませんでした。強いて挙げればそれまで連結していたグリーン車が外されたことと、朝と夕方の通勤時間帯にホームライナーの性格を帯びた列車を増発したことでしょうか。

 しかし、国鉄から継承した183系も2000年代に入ると老朽化・陳腐化が目立つようになります。その前段として、民営化後のイメージアップもねらって1993年に255系が導入されました。255系はそれまでにない新しいコンセプトの車両で、それまでの単なる都市間輸送を担うだけではなく、房総半島の観光列車という性格も帯びたデザインとされ、「Boso View Express」という愛称までつけられました。

 やがて183・189系の置換えは本格化し、2005年までには新たにつくられたE257系500番代が充てられるようになり、「しおさい」は全列車が255系またはE257系500番代による運転となりました。

 一方で、姉妹列車ともいえた「あやめ」や「すいごう」は民営化後も存続はしていました。しかし、千葉県内の道路事情が改善し、高速道路網の整備が進展してくると、もはや鉄道を第一選択肢とする必要もなくなり、利用者の減少に悩まされるようになりました。成田線経由で東京と銚子を結んでいた「すいごう」は、1993年から減便が始まり、1994年には朝晩各1本にまで減らされてしまいました。2004年には「あやめ」統合されて「すいごう」はその名は消滅してしまいます。成田線経由で鹿島神宮を結んでいた「あやめ」も「すいごう」同様に朝夕だけの運転となってしまった後、運転区間を短縮させた上で「しおさい」に統合されるなど、2010年代に入る頃には風前の灯火という状態にまでになります。しかし、それでも利用者は少なく、JR東日本の合理化施策により2015年には「あやめ」の運転が廃止となってしまい、同じ総武本線を走り今なお5.5往復、多客期には臨時列車の設定がある「しおさい」とは対照的でした。

 

 

《次回へつづく》

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

*1:こうした国鉄の手法は、分割民営化まで続けられた。そもそも急行形電車は昼夜を問わず長距離運転を強いたため、同じ距離を走る特急形電車と比べても老朽化が進んでいた。これは、特急形電車は昼間のみ運用されていたため、同じ運転区間でも急行形は運用距離自体が伸びてしまったためだと考えられる。また、老朽化した急行形を維持するためにはコストもかかり、さらに間合いで普通列車として運用しようにも、片側2扉デッキ付という構造が災いしてラッシュ時を中心に増加する乗客を捌ききれず、乗降に時間をかけてしまいダイヤを乱す原因となっていた。そのため、国鉄は使いづらい急行形は老朽化も進んだこともあって早々に引退させる方針を採っていたため、急行として運転されていた列車を特急格上を進めていた。同時に廉価な急行料金より、それなりの料金設定になっている特急料金を徴収することにより増収も見込めるため、国鉄にとっては「一石二鳥」とばかりにこうした政策を進めていたといえる。