旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第一章・その7「鉄道マンとしての振り出しは九州・門司」

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◆鉄道マンとしての振り出しは九州・門司
 九州は日本の中で好きなところの一つだ。小学生の頃、祖父に連れられて旅行をしたときも、東日本ではなく西日本によく行ったものだった。中でも印象深いのが、東京から新幹線に乗って博多まで出て、博多で少しブラブラしてから門司港西鹿児島行きの夜行急行「かいもん」号で西鹿児島へ。そこから指宿枕崎線に乗り換えて、日本最南端の駅である西大山駅を越えて枕崎へ行ったことだった。
 それ以来、私が旅に出るとすると西方面がとにかく多い。
 そんなわけで、九州勤務、それも福岡県北九州市にある門司に赴任することになった時、少々旅行気分になっていたのを憶えている。もっとも仕事で行くのだから、そんな遊び気分で務まるはずがなく、後でそんな気分だったことを酷く後悔させられる羽目になったが。
 4月2日付の発令だったが、発令通知書の交付日(このあたりの用語はさすが役所じみていて、看板は変わっても国鉄の名残を充分に残していた)が1日付だったので、赴任休暇を2日間もらって門司へ行くための準備となった。
 もちろん、そんな発令を持って帰ったら両親はびっくり仰天。父は「さすが全国の会社だな。そんなこともあるだろうとは思ったけど、まあしっかりやってこい」といい、母はといえば心配で仕方ないようだった。
 必要な荷物は段ボールに詰めて、宅配便で門司の寮に送ると、指定された4月4日の9時に羽田空港に行った。当時はまだ羽田空港が沖合展開前で、古い旅客ターミナルだったことを憶えている。
 そして、JRなのに新幹線ではなく、飛行機で移動というのも驚いた。
 さすがはこのあたり、効率を優先する民間会社だった。それに、JR貨物の職員には、旅客会社の列車を乗車できる「職務乗車証」はなく、年間10枚支給される割引乗車証があるだけで、しかもそれは片道100キロ以上で私的な旅行にしか使えないから、飛行機での移動になったのだろう。
 羽田から東亜国内航空(後に日本エアシステムに社名を変更し、さらに日本航空に吸収)のエアバスA300に乗り込み、一路福岡へ。福岡空港に着くと貸切バスに詰め込まれ、途中昼食を取ってから門司へと移動し、午後の遅い時間帯に門司第一鉄道寮へと入った。
 名前からし国鉄っぽさ満載で、いかにも鉄道マンの住処らしいので、私はいよいよ鉄道マンになったという喜びに満ちあふれていたのも束の間、寮はむさ苦しい男所帯(当たり前だが)。しかも、中には一癖も二癖もありそうな強面の先輩もいて、同期の仲間と少々肩身の狭い思いをしたものだ。
 この寮はJR九州が所有する施設で、JR貨物が共同で使わせてもらっているもの。もともとが国鉄という一つの組織だったのが、分割民営化で別会社となってしまったことで、間借りをすることになったそうだ。
 もっとも、門司自体が私が住んでいた新鶴見と同じく鉄道の町で、門司駅をはじめ門司機関区、門司操車場、東小倉駅などなど鉄道の施設がたくさんあった。特に操車場で働く職員は多かったようで、その流れからなのか寮の住民も旅客会社よりも貨物会社の職員の方が多かったと思う。f:id:norichika583:20180221190727j:plain
▲門司第一鉄道寮の自室からの眺め。北九州市八幡の製鉄所が玄界灘越しに望むことができた。

 門司の鉄道寮の部屋は嬉しいことに一人部屋の個室だった。しかも、エアコンの設置したばかりで、快適に暮らせると課長さんは話していた。確かに一人の個室だったが、机はスチール製でやたらに長い。ベッドはあったが、畳が一畳敷いてあるもので、何かを外したような痕があった。聞けばもともと二人部屋だったのを、一人部屋に改造したということだった。やはり時代の流れだったようで、二人部屋では寮を利用する社員はいなくなってしまう。そうなっては、せっかくの寮も開店休業、コストを食い潰すだけのお荷物になってしまう。
 とにかく見た目は古いが、リフォームもされていて快適だった。それに、もともとが二人部屋だったおかげで一人で使うには少々もったいない?と思える広さにちょっとした満足感を味わった。
 寮の部屋のことでもう一つ。
 実は、門司第一鉄道寮は門司駅からはバスで15分ほど、玄界灘に面した門司の町を背にした山の麓にあった。だから鹿児島本線が走る海岸沿いからは少し高い場所に建っている。そして私は4階建ての4階に部屋をいただいたので、窓からの眺めが素晴らしかった。毎晩、ライトアップされた関門橋を眺めることができたし、晴れた日には玄界灘の海がきれいに光っていたf:id:norichika583:20180221190709j:plain
▲同じく寮の自室から。関門海峡とそこに架かる関門橋も一望できた。夜になると関門橋はライトアップされて、とてもいい景色だったことを憶えている。

 高校を卒業してすぐに親元を離れて一人暮らしとなったが、寮とはいえ素晴らしい住処と希望溢れる仕事で、とにかく毎日が楽しくて仕方がなかった。いまも、あの頃のことは鮮明に覚えているし、叶うことならあの頃に戻れたらとおもうこともある。まあ、それは無理な相談かも知れないが。