旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

18両の小世帯で東海道・山陽路で奮闘した旅客用電機 EF61形【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 直流電気機関車といえば、現在ではJR貨物保有・運用する車両がほとんどで、その形式も統一されつつあります。平坦線用の万能期であるEF210形と、勾配線用の2車体H級機であるEH200形が数多く活躍している一方、国鉄から継承したのはEF65形とEF64形、そして民営化後に改良形として製作したEF66形100番台の5形式です。

 しかし、国鉄時代は用途に合わせて様々な形式があり、趣味的にも興味深いものがありました。

 例えば、貨物用機として登場したEF60形は、前面の前部標識灯は白熱灯1個を備えていた前期形は、旧型電機の意匠を取り入れながらもボギー台車を装着した形態でしたが、後期形は前部標識灯がシールドビーム灯2個と変わり、さらに側面は大型の長方形のルーバー窓が並んでいて、その上には最高用の細長い窓を設置、後に登場する電機の標準的なスタイルを確立しました。

 EF60形は貨物用機として設計されていたので、歯車比は低速寄りの設定となったため、牽引力は大きくなった一方、高速性能はEF15形とほとんど変わらない低速機でした。もっとも、EF60形が登場した1960年当時の貨物列車は、現在のように100km/hを優に越えるような高速列車ではなく、有蓋車などを数多くの貨車を連ねながら、最高運転速度が65km/hであったので、本来の用途で使われていれば、この性能でも十分だったと考えられたのでしょう。

 一方で、国鉄は数多くの客車列車も運行していました。これらの列車は機関車が牽引する列車であり、特急列車はもちろんのこと、普通列車にいたるまで、基本的には長距離を走るという運行形態が維持されていました。

 鉄道開業以来、伝統的な機関車牽引の客車列車は、その先頭には蒸機が立つのが常識でしたが、東海道本線の電化を皮切りに、その先頭には蒸機から電機が取って代わっていきました。電機は、蒸機のように途中駅での給炭や給水が必要なく、連続して長距離を走ることができるので、その車両基地となる機関区の設置も少なく済みました。

 例えば、東京から大阪までの列車は、蒸機牽引の列車は途中で何度も機関車の付け替えが必要でした。そのため、機関区も数多く設置されていました。

 

〔東〕東京機関区(客車)

〔品〕品川機関区(貨物)

〔新〕新鶴見機関区(貨物)

〔茅〕茅ヶ崎機関区

〔国〕国府津機関区

〔沼〕沼津機関区

〔静〕静岡機関区

〔浜〕浜松機関区

〔豊〕豊橋機関区

〔名〕名古屋機関区

〔稲〕→〔稲一〕稲沢機関区(→稲沢第一機関区)

〔米〕米原機関区

〔梅〕梅小路機関区・

〔吹〕→〔吹一〕吹田機関区(→吹田第一機関区)

〔梅田?〕梅田機関区

〔宮〕宮原機関区

 

 東海道本線に設置されていた機関区だけでも、ざっと16もの区所もあったのです。もちろん、これらすべてで機関車の付け替えが行われていたとは考えられませんが、それぞれの区所で機関士や機関助士の受け持ちも決められていたので、乗務の交代も頻繁に行われていたと推測できます。もっとも、蒸機の運転は過酷な肉体労働そのものであることは記録などから分かるとおりで、これだけ多くの区所が設置されていたのは仕方のないことといえます。

 

第二次世界大戦後に国鉄が設計製作した電機は、戦前から戦中に作られた「省形」電機の流れを汲んだものだったが、逼迫する輸送量に対応するために大幅に性能を向上させた。旅客用としてつくられたEF58形は、製造当初はEF15形と同じ箱形の車体だったが、後に蒸気発生装置を搭載するなどの改設計を施し、流線形の優美な車体をに替えられた。連続して高速で走行することを前提としたため、全界磁でも68km/hに達する定格速度は、旧形電機のみならず新性能電機でもこれを超えることはなかった。EF15形は戦後の貨物用電機を代表する車両で、デッキ付箱形の車体は旧形電機の標準的なスタイルだった。外観こそ違うが、EF15形とEF58形は共通設計の部分が多い。(上:EF58 172 下:EF15 165 ともに碓氷峠鉄道文化むら 2011年7月16日 筆者撮影)

 

 しかし、これだけの区所が設置されているということは、機関車の検査や修繕に携わる検修職員、機関車に乗務する機関士と機関助士、区所の事務を司る事務職員、構内の操車誘導を担う運転職員など、数多くの職員を配置しなければならないため、当然人件費をはじめとしたコストもかかっていたのです。

 言い換えれば、蒸機時代は車両はもちろんですが、人も手間も、コストもかかる巨大なシステムでしたが、こうした状況は国鉄の経営を圧迫していくのは目に見えていました。また、蒸機の吐き出す煤煙は沿線の住民からは言葉通り「煙たがられ」て社会問題化し、国鉄は蒸機から電機やディーゼル機への転換して無煙化を推進する「動力近代化計画」を進めていました。

 そうした中で、第二次世界大戦後には東海道本線の電化が着々と進み、1956年に東京駅-神戸駅間の全線の直流電化が完成すると、列車の牽引は蒸機から電機への置き換えが進められるようになります。

 そして、特に旅客列車は蒸機から電機への置き換えが早く、その先頭には戦後に製作された旅客用大型直流電機であるEF58形が、特急列車から普通列車に至るまでほぼ独占するように立つようになりました。

 旅客用大型直流電機であるEF58形は、1946年から1958年までに172両も製造され、当時の電機の中でも一大勢力を築いていました。14年もの長い間製造されたため、何度か設計が改良されるなどしましたが、基本的な性能は変わりませんでした。

 EF58形は冬季に暖房用の蒸機を送り込むための蒸気発生装置を搭載していたこともあって、電化の進展とともに東海道本線だけでなく、山陽本線高崎線上越線などにも進出していきました。もっとも、これらの運用は東海道本線で活躍していたEF57形と交代していきましたが、それでも運用範囲は広がり続け、これを補完する電機が求められるようになります。

 

《次回へつづく》

 

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