5-5 EF30を置き換えた基本番代改造の400番代
1986年のダイヤ改正では、翌年に行われる予定になった国鉄分割民営化を見据えた車両配転が行われました。
関門専用の特殊仕様機であるEF30は、既に誕生から30年以上が経ち、過酷な環境での運用を続けてきたことから老朽化が進んでいました。老朽機で、しかも運用にも制限がある機関車を、新会社には引き継ぐのは得策ではありませんでした。
そこで、EF30を置き換える交直流電気が必要でしたが、新たに300番代をつくるのもコストが高くなるため、国鉄としてはまり選択したくない方法でした。もっとも、引き継ぐ新会社にしてみれば、新車を引き継いだ方がよかったのかも知れませんが、もはやどうにもならないくらいに巨額な債務を背負っているところへ、さらにその額を積み増しするのは国が許すはずがありません。
ちょうどその頃、貨物列車の大幅な減少や、客車列車の電車列車化によって大量の電気機関車が余剰となっていました。その中には日本海縦貫線用として誕生したEF81もあり、これを逃す手はありませんでした。EF81は既に300番代4両が門司に配置されて活躍しているので、運転・検修の両面でも受け入れやすい車種だといえます。
そこで余剰になったいたEF81基本番代に、関門間で必須となっていた重連総括制御装置を追設するなど、関門特殊仕様を施す改造を受けたの400番代14両が誕生し、EF30を入れ替わる形で門司機関区と大分運転所に配置されました。
この14両という数は、EF30の22両を置き換えるには足らないものでした。300番代とあわせても18両なので、4両が不足することになります。しかしこの頃は貨物列車も大幅に削減され、運転形態も拠点間輸送に変化していたことや、寝台特急など客車列車も減っていたため、必要最小限に抑えたためと考えられます。
400番代はもともとは基本番代だったので、車体は300番代のように車体はステンレス鋼ではなく普通鋼でした。赤13号または赤2号に塗られたままという姿は、本州のEF81とあまり変わりがなかったため、識別にはナンバープレートを見るしかありませんでした。
また、普通鋼製の車体であることから、屋根には耐腐食材が塗られ、滴下する海水による屋根の腐食を防ぐ対策が施されました。また、パンタグラフにも耐腐食塗料を使われるなど、可能な限りの対策がなされました。
しかし実際に運用に入ると、車体の塗料の色褪せはいかんともし難いものがありました。全検などで工場出場時は鮮やかなローズピンクだったのが、運用を積み重ねる内に白っぽくなってしまいます。かつて国鉄末期の気動車は、朱4号一色に塗られていたのが経年で色褪せると「タラコ色」などと揶揄されたものですが、400番代もまた色褪せは激しいものでした。
実際筆者が門司時代に400番代を目にしたとき、同じ塗装を身に纏った300番代1次車と比べても、その色褪せは激しく「ピンク」ではなく「ピンク色っぽい白色」にさえ感じたものです。ステンレス鋼に比べて普通鋼の方が塩害による化学変化が激しく、その分塗料にも大きな影響を及ぼしているのだと思われます。
民営化後、計画通りに門司配置車はJR貨物へ、大分配置車はJR九州へ継承されました。そして、国鉄時代と変わらず、関門間を走り続けましたが寝台特急の相次ぐ廃止により、JR九州の400番代は2009年には運用を失い、2010年に廃車となってしまいました。
一方、JR貨物に継承された400番代は、300番代や民営化後につくられた450番代とともに、貨物列車の先頭に立ち続けます。後継機が不在だったことや、JR貨物に在籍する電機の中でも車齢が比較的若く、老朽取替を擁する機関車は他にもあり、財政的にも後回しにせざるを得なかったなどの事情が重なり、延命を目あ的とした更新工事も施されました。
また、富山配置の基本番代の中には車齢が高く、老朽化も進んで廃車になる車両も出てきたことで、必要な数を賄うことが難しくなったため、長らく配置されていた門司から転出して富山に配転となった車両もありました。400番代に改造される前は日本海縦貫線を走っていたので、変わった姿にはなりましたが「里帰り」をはたしたようなもので、EF510への置換がなされるまではここで活躍することになりました。
門司に残った400番代も、ようやく後継となるEH500がやってきたことで、長年走り続けた関門トンネルでの運用から退いていき、老朽化して廃車の進むED76の運用を置き換えていきました。今日では僅かに廃車がでたものの、他のEF81とともに九州島内の貨物列車に使われており、門司・北九州貨物ターミナルー福岡貨物ターミナルをはじめ、八代、鹿児島貨物ターミナル、南延岡などの運用に就いています。
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