《前回からのつづき》
EF61形が新製されると、全機が宮原機関区に配置されました。わずか18両という少数勢力とはいえ、EF61形は暖房用の蒸気発生装置を備えた新性能直流電機であること、EF58形に迫る高速性能をもつ電機であることから、当時はまだ多く運転されていた客車列車の先頭に立っていました。そして、蒸気発生装置を搭載していたことから、その多くは冬期に暖房用の高圧蒸気を必要とする旧型客車で組成された列車で、特急列車よりも急行列車や普通列車、そして荷物列車が主な仕事となっていました。
多くの諸兄が記録として残された写真にも、真冬の深夜に停車した駅で、屋根から蒸気を吹き出していたり、走行中に同じく屋根から蒸気を吐き出している姿を捉えたものがありますが、蒸気発生装置を作動させて客車へ高圧蒸気を送っていることを示すものです。
このように、割と地味な運用を担ったEF61形ですが、時として宮原区受け持ちのEF58形のピンチヒッターを務めたこともありました。事故や故障、検査などでEF58形が運用に入れないときなどは、その高速性能を活かして寝台特急列車の先頭に立つこともあったようで、実際に「あさかぜ」をEF58形に代わって牽いた実績があります。
また、山陽本線の広島電化後は、隘路でもある瀬野八の補機運用という役割も、間合いとして担うことになりました。そのため、EF61形には走行中に解放するための自動連結器解放テコの解放用空気シリンダーが両エンドに装備されるなど、純粋に旅客用電機としてだけではない重装備を誇る車両でした。
1963年に寝台特急列車用としてEF60形500番台が登場すると、その役割から退いていきました。1964年に山陽本線が下関駅まで全線が電化したことで、EF61形が活躍する舞台は大きく広がっていきました。しかし、東海道新幹線が開業したことで、東海道本線の急行列車が削減され、それとともに普通列車が電車への転換が進んだことなどにより、EF61形の運用も減っていきます。
客車列車を牽くために欠かすことができない冬季の暖房用熱源である蒸気発生装置を搭載し、連続して高速運転が可能な性能をもったEF61形は、旅客用電機の名機ともいえるEF58形に匹敵するものだった。しかし、EF58形が寝台特急の運用に数多く充てられたのに対し、EF61形はそうした花形の運用に就くことはなく、稀にEF58形の代役はあっても夜行急行列車や荷物列車といった地味な役回りが多かった。写真のように郵便車や荷物車を従えた姿が多くの記録に残され、これらの列車に乗務する鉄道郵便局員や荷扱車掌らの執務環境の確保に、EF61形は大きな役割を果たしたともいえる。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)
その運用が減ったことで余裕ができたため、一部は吹田第二機関区へと貸し出され、そこでは本来の設計意図とは真反対の貨物列車を牽く役割を担いました。そして、1968年には広島機関区へ配置転換されると、そこでは梅小路駅(現在の京都貨物駅)−下関駅間の貨物列車運用へ充てられてしまいました。本来、旅客列車を牽くために高速寄りの歯車設定にし、EF58形に迫る定格速度性能をもち、さらに蒸気発生装置を搭載した分、バーニア制御器や空転検知器といった貨物用機の装備を省略したにもかかわらず、貨物列車運用に回されたというのは、EF61形にとっては不本意であったことでしょう。
当然、旅客用機としての性能をもった電機だったので、重量の重い貨物列車をEF61形で牽くことは、これに乗務する機関士もまた苦労があったと想像できます。特に0km/hからの引き出し時には、天候や軌条の条件によっては動輪軸の空転を頻発させたと考えられます。
動輪軸の空転は、それを発生させた電機にとっても、軌条にとってもよいものではありません。空転が起きることで、車輪のタイヤ部を損耗させるだけでなく、軌条に対して1か所を集中的に擦るので、一点に集中して摩耗を起こすので損傷してしまいます。また、空転を起こしたときに同輪軸の回転速度が極端に速くなると、主電動機が異常回転したことで破損してしまいます。
そのため、空転をしたときに動輪軸の粘着力を高めるため、砂や最近ではセラミック粉を軌条に撒いて対応します。こうしたことを防ぐために貨物列車を牽くことを前提とした電機は、細かい電圧制御を可能にするバーニア制御器と、動輪軸の空転を検知する空転検知器といった重量列車に対応した機器を装備しています。
しかし、EF61形は旅客用機として設計されたため、これらの機器を搭載していませんでした。
それにもかかわらず、EF61形は旅客列車の運用から外され、貨物列車を牽く運用に充てられたのです。しかし、操車場間を移動する普通貨物列車や急行貨物列車のような、何十両にも渡る多数の貨車を連結した重量列車を牽くには、EF61形の性能では役不足だったと考えられます。そのため、比較的列車重量が軽い列車に充てられたと考えられるでしょう。
その証左に、東海道新幹線が博多駅まで全線開業した1975年以降は、操車場と貨物取扱駅の間を走る増解結貨物列車の運用に充てられることが中心となったようでした。ただでさえ、当時の貨物列車は、その輸送量が荷主の国鉄離れとモータリゼーションの進展によるトラックへのシフトなどにより減る一方の中で、ローカル貨物列車の運用が中心となれば、ますます地味で存在感の薄いものへとなっていったのは容易に想像できるところです。
1978年になると、EF61形に僅かながら光が差し込みました。先輩であるEF58形が老朽化などで廃車が始まると、荷物列車を牽く運用をEF61形が代わりに充てられるようになります。やはり、旅客用機としての装備と性能をもっていたが故に、
このように、登場時から比較的地味な運用が中心だったのが、荷物列車とはいえ本来の設計に沿った運用に再登板することができました。
しかし、これも長く続くことはなかったのです。
《次回へつづく》
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