旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第一章・その8「最初の実習・小倉車両所」

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◆最初の実習・小倉車両所
 1か月間の集合研修は九州支社の研修センターで受けた。門司機関区の構内にあって、そこへ行くには線路を渡らないと行くことができない。しかも機関区の側線だったが、一般の人が渡るところではないので、当然、踏切警報機や遮断機などはない。
 初めて研修センターに行くとき、私より先に歩いていた同期の仲間が線路を渡ろうとすると、引率していた先輩が大声で怒鳴った。
「ばかもん!何も確かめないで渡る奴があるっちゃー!」
 そう。ここは九州で、先輩は九州訛り全開。とにかく言葉が少し違うだけで、関東育ちの若い駆け出しの鉄道マンたちは、震え上がったものだった。そして先輩が怒鳴った原因は、鉄道マンの基本中の基本である「指差喚呼」をしなかったからだった。
「そう言われても、まだ教わってないよな」
 と私の傍で呟いたのは、東京出身のK君。K君は鉄道学園を卒業して採用された同期で、後に隅田川駅の輸送係を経て、高崎機関区で機関士になった友人だった。
 駅のホームで駅員がやっていた「右よし、左よし」の指差喚呼を自分がするかと思うと、いよいよ鉄道マンとなった実感が湧いてきたものだった。ただ、ここで一つの難点があった。
 いままで指差喚呼などしたことがない。誰が見ていなくても、線路を渡るときには必ずしなければならないが、中には恥ずかしいのか声が小さい人もいる。そうすると先輩から容赦なく、「声小さいけん、やり直すっちゃ!」とこれまた九州訛りで怒鳴られる。そうすると、ほとんど怒鳴るように「右よし!左よし!」といい、ようやく渡ることが許されたのだった。声を出す方に意識がいっては、安全確認できているのかなあ。
 それを毎日、出社時と退社時にはその場所ですることになる。機関区の構内なので検修庫もあり、その脇を通り扇形庫のそばを抜けていかなければ研修センターに辿り着くことはできない。当時は門司機関区にも扇形庫が残っていて、SLの姿こそないがDD51形やDE10形といったディーゼル機関車のねぐらになっていた。
 1か月間、研修センターで座学を学ぶと、いよいよ現場へ行って実習を受けることに。座学の最終日に次の1か月間の研修場所を言い渡されるのだが、私たちは黄色い「JR貨物研修生」という腕章とともに、黄色いヘルメットと紺色の作業服を2式渡された。
「明日から小倉車両所へ行くように。場所は日豊線の西小倉の先にある」
 と言われて、一緒に通勤用の定期券を渡された。
 私はてっきり日豊線に乗って通うと思い込んでいたが、手にしたのは何と西鉄のバス・路面電車のもの。寮のある別院通りからバスで砂津に向かい、そこで北九州線に乗り換えて金田(かなだ)電停までのものにびっくりした。まあ、このあたりも門司へ赴任するときと同じ理由なのかも知れないが、それはさておき私の生涯でまさか路面電車を使って通勤をするとは思いもよらなかった。(後年、私はモノレールを利用して通勤をしたこともある)

 

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 小倉車両所はJR九州の小倉工場(現在の小倉総合車両センター)の敷地内にある。もともとが国鉄という一つの組織であり、国鉄小倉工場の機関車と貨車に関係する職場がJR貨物に継承されて小倉車両所となったので、同じ敷地に二つの会社の組織が同居することになった。
 小倉車両所では、私たちが着任するのを心待ちにしていてくれたようで、所長をはじめ助役、検査長(正式な職名は車両技術主任)たちが笑顔で出迎えてくれた。
 自己紹介などの挨拶と簡単な手続きが終わると、再び所長からの講話。もちろん、一つひとつそれには意味があり大切なことだが、さすがに1か月も座学が続いたので少々疲れてしまう。一日目は講話と工場内の見学で終わってしまった。
 二日目にはまたとない体験をすることになった。
 当時は老朽化した貨車の取替が進められており、コキ100系貨車が次々と新製されていた時期だった。新製された車両は、メーカーから鉄道会社に引き渡された後、必ず本線上で試運転をする。この日、私たちは東小倉~黒崎までの試運転列車に便乗することになった。
 小倉車両所から車に乗り東小倉駅へ。そこには旧門司操車場の線路が広がり、余剰となって廃車になり国鉄清算事業団によって管理されているたくさんの貨車が留置されている、いわば車両の墓場状態だった。そういえば、機能停止をした新鶴見操車場もまた、廃車となった機関車や貨車、客車が所狭しと留め置かれていたなあ。用途を失ったワキ10000形やEF62形、果ては「走るホテル」と呼ばれ当時としては豪華な設備を誇り東京と九州を結ぶ寝台特急で活躍した20系客車といった車両たちが風雨に晒され朽ち果てながら佇んでいたことを思い出してしまった。
 この頃の私の中では、JRの貨物輸送は国鉄時代にほとんどが『壊滅』したと認識していた。この認識はある意味においては正しく、そしてもう一つの意味においては不正確だった。
 確かに黒いワムをはじめとし、多種多様な貨車を連結していた昔ながらの貨物輸送は既に終わっていた。だから、車掌車や緩急車などはほぼすべてが用途を失い、スクラップになったかそうなるかを待つ運命だった。実際に、この頃の門司操車場跡にはいまだ解体がされずに、貨車の墓場のような様相を呈していた。
 しかし、すべてがそのような運命を辿ったわけではなかった。
 私が検修助役に連れられて行った東小倉駅の発着線には、真新しい明るい青色に塗られたコキ100形4連2本と、その両端には役目を失ったかと思い込んでいたヨ8000形車掌車が連結されていた。
 そう、私の認識は、ここでは不正確だったのだ。
 大半が用途廃止となって廃車となったものの、JR貨物には当時148両が引き継がれ、甲種輸送列車や特大貨物、貨車の新車受領に伴う公試運転列車の添乗用に残され、地味ながらも現役として活躍していたのだ。
 私はとにかくそんな黒い車掌車が残っていること自体驚いたが、それだけではなくかつて憧れていた車掌車に、研修とはいえ短い距離ながらも乗務することになるとは夢にも思っていなかった。

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▲車掌車・ヨ8000形貨車の執務室内。中央にあるのは灯油ストーブ、手前右側の扉には車掌車として初めてトイレが設置された。人が乗務する車両とはいえ、貨車なので乗り心地は想像以上に悪く揺れもすごかった。この車両には公試運転列車で添乗したが、試運転列車なので連結している試験車両の状態を確認するために、デッキの扉は開けっぱなし。当日は小雨模様でとにかく寒かった。

 検修助役に半分急かされるようにして車掌車へ乗ると、すぐに公試運転列車のことと車両所の職員が列車に添乗することについて説明を受けた。新製車両は車両メーカーで必要な検査(自動車で言うところの車検)を受けているが、実際の試運転は受領した鉄道会社でなければできないのだった。
 そして、新車とはいっても不具合がないとは限らない。そこで、走行しながら監視をし、折り返す駅で停車中に検査をするために、全般検査(車検)に携わるベテランの車両技術者が車両所から派遣されるとのことだった。
 なるほど!まだまだ私の知らない世界があったんだ。
 いま思うとお恥ずかしいことだが、当時はそう思ったものだった。鉄道マンになって1か月しか経ってないのに、よくもまあ自分自身を一人前だと考えるとは若さとはいえ身の程知らずだった。
 試運転列車は赤い塗装のED76形に牽かれて鹿児島本線を西へと走っていく。車掌車はさすがに貨車だけあって、サスペンションは二軸貨車の標準的な板ばねだったので、とにかく酷い揺れっぷりだった。しかもレールの継ぎ目を通過するたびに、車輪が拾った衝撃はさして和らぐこともなく体に響いてくる。仕事とはいえこんな乗り心地の悪い車両で長距離を乗っていたとは、先人たちの苦労が浮かばれるとともに頭が下がる思いだった。