旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨物列車の最後尾を飾った有蓋緩急車たち【2】

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《前回からのつづき》

 

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 国鉄時代、ヤード継走輸送が全盛だった頃の貨物列車は、大きく分けて二つありました。

 一つは、貨物取扱駅と方面別に仕分けをする操車場の間を行き来する列車で、これを「解結貨物列車」と呼ばれていました。もう一つは操車場と操車場の間を長距離を運行するもので、列車の速度別に「普通貨物列車」と「急行貨物列車」がありました。どちらも最後尾には列車掛が乗務していましたが、前者は主に有蓋車に車掌室を設けた有蓋緩急車が、後者は長距離に渡って乗務するため、比較的設備の整った車掌車が充てられていました。

 これら列車掛が乗務する車両のうち、有蓋緩急車はは読んで字の如く、有蓋車に列車掛が乗務するための設備が設けられた車両です。「有蓋」があるのなら「無蓋」もあるのではと考えられると思いますが、国鉄で無蓋車に緩急設備を設けた車両はあるにはありましたが、どちらかといえば有蓋緩急車の方が一般的でした。

 国鉄(その前身である鉄道省も含めて)が保有した無蓋緩急車は、1943年に製造されたトムフ1が最後で、その後は計画もされませんでした。トムフ1はトラ6000の荷台中央部に申し訳程度の小さな車掌室が設けられたもので、木造であることや、側面から見て凸型となり走行中は常に吹きさらしになっていたことなどから、その環境は劣悪そのもので、「寒泣車」とまで呼ばれていたほどだといいます。戦時中に設計製造されたトムフ1は、言い換えれば戦争中だけ保たせればいいという設計思想と、折からの物資不足とも重なり、当時の車掌たちからも敬遠の対象だったそうです。

 一方、有蓋緩急車は多くのバラエティに富んでいて、趣味的にも面白いものがあるといえるでしょう。戦前は用途を失った木造電車を小改造しただけで貨車に編入したものもあったようですが、多くは有蓋車に車掌が乗務するための設備を備えた車両でした。しかし、その設備面では簡素、いえ、粗末なものも多くあり、中には出入口の扉だけを設置し、椅子どころか窓すらないものもありました。いかに、輸送を優先させ、職員の労働環境などは二の次、三の次だったかがわかるといえます。

 さすがにそれでは車掌車との差が激しいので、鉄道省は1933年からワフ21000を製造しました。

 

■車掌室を重視した設計のワフ21000

 1933年から鉄道省が製造したワフ21000は、それまでの有蓋緩急車とは大きく異なり、車掌が乗務するスペースが広く取られ、執務用の椅子と机、そして休憩用の椅子も設置されました。加えて、従来の有蓋緩急車では、車掌は側面の扉からステップを登って車内に乗り込んでいたのが、車端部に設けられたデッキから乗ることができるなど、車掌の作業環境は大幅に書いっ善されたのです。

 もっとも、ワフ21000は車両の3分の1を車掌室に充てたため、積載荷重は2tと非常に小さくなりました。輸送力重視だった設計から、車掌の乗務環境を重視した設計への転換は、当時としては画期的だったといえるでしょう。

 外観からもそれはよく分かるというもので、車掌室側の車端部にはデッキが設けられ、室内を広く取ったがゆえに窓も3個設置されていました。そして、貨物を載せる有蓋室はというと、積込用の扉は端に寄せられていて、あまり多くの物を載せることはできないことが見て取れます。

 ワフ21000は1939年までに全部で775両が製造されました。そして、その年からもわかるように、日本は1937年から日中戦争へと入り、戦時体制が敷かれていました。1938年には国家総動員法が施行されたことで戦時体制は強化され、鉄道の貨物輸送も輸送力重視へと傾き、ワフ21000のような車掌の乗務環境を重視した設計の車両は「贅沢」と見做されたかはわかりませんが、再び輸送力重視の有蓋緩急車へと移行していきました。

ワフ21000(©シャムネコ, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

ワフ21000の形式図。車掌室側車端部にはデッキが設けられ、車掌はここから出入りしていた。全体の3分の2を車掌室に充てたことで、車掌の乗務環境は大幅に改善され、二人乗務も可能な設備を備えていた。その分、貨物室は大幅に削減され、最大積載荷重は2tと有蓋車としては非常に小さいものだった。(出典:国鉄貨車形式図 1952年 日本国有鉄道車両局)

■戦時体制の中、輸送力重視へと回帰したワフ25000

 ワフ21000の後継増備車として、1938年から製造が始められたのがワフ25000でした。前形式であるワフ21000が車両の3分の2を車掌室に充てて乗務環境を重視したのに対し、ワフ25000は車掌室を4分の1にまで縮小、デッキも省略されるなどワフ21000以前の設計に類似したものへと回帰しました。

 1938年から施行された国家総動員法により、日本は戦時体制下になったことは鉄道にも大きな影響を与え、その一例がワフ25000だったといえるでしょう。鉄道省も貨物輸送の輸送力重視へと傾き、ワフ25000は積載荷重が8tにまで増やされ、全体の4分の3が有蓋室になりました。

 これだけ荷重が増やされたことで、満載時にはバランスが悪くなることが想定されたため、車掌室側のオーバハングが大きく取られ、よく見ると走り装置が有蓋室側に偏って設置されていました。

 車掌室は狭くなり、側面に出入口の扉が設けられ、車掌はステップを登って車内に入るようになりました。扉は引き戸で有蓋室側にスライドするものでした。執務用の椅子と机が1組だけ、外側を向くように設けられ、窓も扉と側面のそれぞれ1個ずつ、後方監視用に小さな窓が1個あるだけだったので、車内はとても狭くて暗いものだったと想像できます。

 ワフ25000の車体は普通鋼製であったので、ワフ21000と同様に従来の有蓋緩急車に比べれば、隙間風など入り込むことは少なかったと想像できます。ですが、暖房はいっさいなく(そもそも設置するスペースがない)、冬季の乗務は過酷だったのではないでしょうか。

 

ワフ25000の形式図。戦時体制下になってから設計製造されたので、輸送力重視のものになった。そのため、車掌室は全体の4分の1にまで削減され、車掌が一人乗務するのがやっとの広さでだった。ワフ25000は鋼製車体であることが唯一の救いで、次に設計されたワフ28000よりは乗務環境はよい方だったといえる。(出典:国鉄貨車形式図 1952年 日本国有鉄道車両局)

 

 第二次世界大戦が終わった後も、ワフ25000はそのまま運用が続けられました。しかし、戦後の混乱も落ち着いた1955年になると、車掌室を適正化させた新形式であるワフ29500が登場し、ワフ25000の粗末な設備が問題視されるようになります。そのため、1960年から近代化改造が始められ、ワフ29500と同等の設備をもつようになりました。

 有蓋室の荷重は5tに下げられ、車体の約半分にまで狭められました。その空いた分、車掌室は拡張されました。従来、後方を向いて設置されていた執務机と椅子が1組だけでしたが、近代化改造によって広がった部分に外側を向く形で椅子と執務机が1組設置されました。そして、反対側には長さ2,980mmもある休憩用の長椅子が置かれ、車内の中央部にはストーブも置かれました。窓もワフ21000に準じて3個設置され、広くて明るい、そしてなにより冬季は暖房用のストーブがあることで、車掌の執務環境は劇的に改善されたのです。

 また、この近代化改造に際して、走り装置も一段リンク式から二段リンク式に改造が施されたことで、走行性能も75km/hに対応し、貨物列車の運転速度向上に対応しました。ちなみに、この近代化改造工事を受けたワフ25000は、現番号に10000を加える改番が施行されたことで、車両番号は35000番台となったのでした。

 こうした改善工事を受けたことは、ワフ25000にとって幸運だったかもしれません。実際、35000番台に改造された多くのワフ25000は、数多くが増解結貨物列車を中心に運用され、1983年まで活躍したのです。

若桜鉄道八東駅に保存されているワフ35597(©若桜線遺産保存会, CC BY-SA 3.0, 出典: Wikimedia Commons)

ワフ35000の形式図。ワフ25000は鋼製車体であったことから、戦時中に酷使されたにもかかわらず、戦後も状態は極端に悪化していなかったことなどから、車掌の乗務環境を改善して使うこととされた。ワフ29500と同等の車体になったことで、車掌室の面積が広がり、冬季の乗務環境を大幅に改善するためストーブも設置された。但し、車掌室の窓はワフ29500よりも減らされ、工程とコストの削減を図っている。(出典:国鉄貨車形式図 1971年 日本国有鉄道

《次回へつづく》

 

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