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かつて、日本の貨物列車には必ず連結されていた車両がありました。それは、最後尾に赤い尾灯を灯して、古い車両なら白熱電球の薄暗い明かりが車内を照らし、その中には鉄道マンがたった一人でポツンと乗務している小さな車両。
そう、車掌車、または緩急車と呼ばれる事業用の貨車でした。
貨物列車に車掌車や緩急車が連結されていたことを見たことがあるのは、恐らく筆者と同年代かそれよりも年上の諸兄の方々だと思います。
国鉄時代、貨物列車の最後尾に連結されていた車掌車や緩急車は、極々僅かを除いてすべて二軸車でした。国鉄末期に活躍していた車掌車は、古い形式であればョ5000やョ6000といった、暖房用の石炭ストーブ(後に一部は灯油ストーブへ交換)と、執務用の机と丸椅子、休憩用の長椅子が備えられていました。最も新しいョ8000であれば、一人乗務に最適化された執務用の机と椅子、そして休憩に使うテーブルとボックスシート、さらには石油ストーブに加えてトイレまで設置されていたので、乗務する列車掛の執務環境を大幅に改善することに貢献しました。
しかし、貨物列車の大幅な削減と、それに続く合理化の推進により、1985年のダイヤ改正で車掌車の連結を原則廃止となり、多くの車掌車は余剰となってしまいます。そして、翌1986年のダイヤ改正ではついに貨物列車の一人乗務化(機関車に乗務し運転をする機関士のみ)となり、列車掛の職制も廃止されてしまいました。
この一連の流れで、貨物列車の最後尾に連結されていた車掌車は用途を失ってしまいました。夜になると、真っ暗な貨物列車の中で唯一ほのかな明かりを灯していた車掌車の姿も消え、赤く光っていた尾灯も大きな円形の反射素材でできた後部標識板に取って代わられてしまいました。
そんな車掌車。実は筆者は一度だけ添乗という形ですが乗務したことがありました。
車掌車は用途を失い多くが廃車になってしまいましたが、一部の貨物列車には民営化後も車掌車を連結し続けたものもありました。大型貨物を運ぶ「シキ車」と呼ばれる大物車を運転する時には、必ず前後から挟み込むように車掌車を連結していました。また、車両メーカーから顧客である鉄道会社との授受駅まで新車などを運ぶ甲種輸送列車には、やはり車掌車が連結されていました。
もちろん、車掌となる列車掛は廃止されていましたので、これらはメーカーから派遣されてくる人など、添乗する人たちの控車としての役割でした。
こうした運用も民営化後も残されていたので、大量に製造された車掌車の中でも、執務環境がよく車齢の若いョ8000が選ばれ引き継がれました。
貨物会社に入社した筆者も、小倉車両所に勤務していた当時、このョ8000に乗務する機会を得ました。それは、車両メーカーから出場してきた新品のコキ車の受領検査を兼ねた試運転列車で、真新しい鮮やかなブルーに塗られたコキ車にョ8000が連結され、そこに車両所の受領検査員が乗務していたのです。
され、実際に走行する車掌車はというと、旅客列車のような快適な乗り心地などは考慮されていません。これに乗るのは職員だけなので、それほど重要視はされていないことと、なにより製造コストを下げるために他の貨車と同じ構造になりました。そのため、走り装置は他の二軸貨車と同じ二段リンク式(ただし、担いばねは柔らかめに設定されていた)だったため、旅客車に比べて「硬くてゴツゴツし、そしてバウンドもする」という不思議なものでした。
こちらの写真は、秩父鉄道三峰口駅にあった秩父鉄道車両公園で展示されていた、同社の車掌車であるョ10。国鉄の車掌車と比べると、非常に独特な形状をしているのがわかります。
そもそも、このョ10は最初から車掌車として製造されたのではなく、鉱石輸送用のヲキ1を改造して誕生しました。そのため、ボギー台車を履き台枠も種車のヲキ1のまま細いものの上に、車掌が執務するキャブを載せた形になっています。そして、国鉄の車掌車はキャブを挟むようにデッキがあるのに対して、ョ10は片側にしかデッキがないなどと特異な構造をしていました。
さて、このようなボギー台車を履いた車掌車は、あまり例がありません。というのも、車掌車の多くは二軸貨車として新製されるか、あるいは二軸貨車から改造されているものが多く、このようなボギー貨車からの改造車は非常に珍しいといえます。
加えて、私鉄で車掌車を保有している例も少なく、多くは「ワフ」のような有蓋緩急車で、それも保有している有蓋車からの改造車か、あるいは旧式化したために国鉄から払い下げられた車両でした。また、こうした貨車を保有しない私鉄では、国鉄から乗り入れてきた列車に連結された車掌車を、そのまま自社線内でも車掌を乗務させていたようです。
このように、車掌車として単独の貨車を保有していた例は、この秩父鉄道と東武鉄道ぐらいでした。それだけ、秩父鉄道は地方私鉄でありながら、貨物輸送が非常に盛んであったことが窺えます。
さて、このような珍しいボギー台車を装備した車掌車。実際の乗り心地はといえば、さすがに筆者も乗ったことがないので(当然ですが)想像するほかありません。
ただ、同じボギー台車を装備した国鉄のコキフなどから、空気ばね台車を装備した10000系高速貨車の緩急車は乗り心地はよかったようです。しかし金属ばね台車を装備したコキフ50000の評判は燦々たるものであったようで、コイルばねの硬さに加えて、貨車用の台車だったので軸ばねはなく、動揺が激しかったため乗務した列車掛の中には嘔吐する者まで出たといわれています。あまりにも執務環境の悪さに、ついには労働争議にまで発展したほどでした。
確かにコイルばね台車のコキ車は、乗り心地なんて言う言葉とは縁遠いほど酷かったのを思い出します。一度だけ、駅構内で入換をするコキ50000のデッキ部にのったことがありますが、レールのジョイント部の凹みもダイレクトに拾い、しかも硬いばねのおかげで体の芯から脳天にまで響くほど、まるで何の予告もなく固い地面か何かに突き落とされたような衝撃でした。
さて、ョ10の台車は写真からアーチバー台車であるTR20と同等品であると推測できます。このアーチバー台車は、かなり古い設計のもので、戦前の貨車用ボギー台車として一般的なものでした。
さらに、ョ10は台車間の長さが短く、台枠下は「台車しかない」という構造をしていました。
アーチバー台車の枕ばねは板ばねを使っていることや、種車は鉱石輸送用の貨車であったことから、恐らくは硬いばね設定だったのではないかと想像できます。枕ばねが硬い設定となると、国鉄のコキフ50000のように、レールのジョイント部の凹凸を拾い、その衝撃はかなり強く感じるので、ボギー台車を装備していても乗り心地はよいものとはいえなかったでしょう。
もっともョ10は秩父鉄道線内専用だったので、国鉄へ乗り入れることはなく、運転距離も短かったことや、そもそも運転速度も高い方ではなかったので、乗務した車掌も我慢できる範囲だったのかもしれません。
残念ながら、このョ10は現存せず既に消滅してしまいました。露店展示だったために老朽化も激しくなっていたので、2020年に三峰口駅周辺の再整備とともに解体されてしまったようで、私鉄の貨車としては珍しく貴重な存在だったので残念でなりません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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#秩父鉄道 #車掌車 #貨車 #私鉄の車両