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列車の最後尾に連結されている車両は、原則として赤色の灯火を点灯させることが法令で義務付けられています。テールランプ、尾灯とも呼ばれる赤い灯火は、厳密には「後部標識灯」と呼ばれるもので、鉄道の法令では「標識」の一つとされています。
現代では、その多くはLEDを使ったものが一般的になり、その灯火は鮮やかな赤色で、とても見やすいものになりました。そして、LEDになったことでデザインも自由度が増し、JR東日本のE231系などではわざわざ後部標識灯のライトケースを設置せず、行き先表示機の機能を活かしてこれに代えるケースも出てきました。
LEDが一般的になる以前は、当然ですが電球の灯りを使っていました。前部標識灯にはベゼルとレンズが一体になったシールドビーム灯が使われるようになった一方で、後部標識灯はレンズは車体に取り付けられたものを使い、単に電球だけを交換できる安価な白熱灯が使われていました。
何度かこのブログでも紹介した写真だが、国鉄時代の167系で運転された快速列車の最後尾はクハ167で、後部標識灯が点灯している。そして、標識灯には白熱電球が使われていて、フィラメントが発行している様子が赤いレンズ越しにもわかる。特に左側の標識灯に注目すると、フィラメントが横一文字になるように取り付けられていることがうかがえる。(クハ167 熱海駅 1984年8月13日 筆者撮影)
そのため、赤く明度の低いレンズが使われているため、後部標識灯が光っていると、電球のフィラメントが光っているのをはっきりと見ることができました。今ではそうした構造の後部標識灯にお目にかかれるのは稀になり、貨物会社が保有する国鉄形機関車ぐらいになりました。
さて、旅客列車では当たり前に灯されている後部標識灯ですが、貨物列車となると話は変わります。貨物列車の場合、原則として表示(点灯)することが義務付けられている後部標識灯はなく、代わりに赤い円形の反射板を使った後部標識板が使われています。
これは、本来であれば「赤色の灯火」を使わなければならないのですが、貨車にはそれを設置する機能がありません。旅客車のように編成単位で運用されるのではなく、貨車は1両単位で運用され、どの車両が列車の最後尾に連結されるのかは組成が完了しないとわからないのです。そのため、最後尾になることを想定してすべての車両に後部標識灯を設置していては、その機器のコストはもちろん、保守管理にかかるコストも増大してしまいます。そのため、貨物列車については「赤色の灯火」ではなく「赤色の円形の反射板」を使うことが認められているのです。
ただし、すべての貨物列車が後部標識板を使えるかと言うと、実はそうではありません。後部標識板を使うためには、それが列車の最後尾であることを容易に認識できることが条件であり、気象条件などによってそれが認識しにくい場合は使うことができません。特に冬季の北海道内に乗り入れる列車は、吹雪などの気象条件のもとで後部標識板を認識することは難しくなってしまいます。そのため、北海道内に乗り入れる列車の一部では、後部標識板ではなく後部標識灯を設置しています。
しかし、先にも述べたようにすべての貨車に後部標識灯を設置するのはコスト的に不可能です。そこで、後部標識板と同じように貨車への脱着が容易にできる、バッテリー駆動式の後部標識灯を使用しています。こうすることで、貨物列車の最後尾にも赤色の灯火を灯す列車は残っているのです。
現在、電車や気動車で運転される列車は、国鉄時代と変わらず後部標識灯を点灯させている。白熱電球からLEDに、そして行き先表示器の一部を赤くすることで標識灯に代える例も増えてきているが、基本的には大きく変わっていない。しかし、貨物列車は1894年のダイヤ改正をもって車掌車や緩急車の連結が廃止されたことによって、標識灯を掲げる車両がなくなった。代わりに大型の円形の反射板である後部標識板を掲げることになり、それは分割民営化後も現在に至るまで続いている。ただし、北海道内に乗り入れる一部の列車は、荒天時に視認が難しくなることを理由に、標識板に代えて可搬式の後部標識灯を設置している。(©MaedaAkihiko, CC BY-SA 4.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)
今日のように貨物列車の最後尾に簡易な後部標識板が使われるようになったのは、国鉄が分割民営化される直前のことでした。従来は貨物列車の最後尾には必ず車掌(列車掛)が乗務する車両が連結され、その車両が後部標識灯を灯していました。しかし、巨額の債務を抱え財政事情が火の車となった国鉄にとって、コストの削減は急務であり、特に採算が取れない貨物輸送に関しては、合理化を推し進める必要がありました。
1984年2月に行われたダイヤ改正、いわゆる「59.2改正」では、国鉄の貨物用に大鉈が振るわれたものでした。貨車1両単位で輸送をする車扱貨物と、操車場を経由しながら発駅から着駅まで輸送するヤード継走輸送の原則廃止が実施され、全国各地にあった大規模な貨車操車場はその機能を停止、車扱貨物の取り扱いも原則として廃止なったことで、多くの貨車が余剰と化したのです。
このダイヤ改正によって多くの貨物列車が廃止され、残ったのは一部の物資別適合輸送として運行される専用貨物列車と、コンテナ貨物列車でした。これにより、日本の鉄道貨物はコンテナを主体とした拠点間輸送へと転換され、同時に貨物列車の最後尾を飾っていた車掌車や緩急車の連結はごく一部の例外を除いて廃止されたのでした。
貨物列車の車掌車・緩急車の連結廃止によって、後部標識灯を点灯することができる車両がなくなったため、その代わりとなる後部標識板を最後尾になる車両へ取り付けることになります。発駅で輸送係が標識板を取り付け、着駅で取り外すという簡便なものです。これ以降、今日の貨物列車でよく見る姿になりましたが、それまで車掌車や緩急車が連結されている姿を当たり前に見ていた筆者にとっても、なにか物足りない、そして一種の違和感のようなものを感じたものです。それは、筆者が貨物会社に入っても同じで、この違和感はなかなか拭えないものがありました。
一方、1984年のダイヤ改正で車掌車や緩急車の連結は廃止されましたが、車掌(列車掛)の乗務は引き続き行われていました。車掌(列車掛)は機関車の後位側運転台に乗務し、後方監視を行っていましたが、機関車のブレーキ性能が向上したこと、1列車あたりの連結両数が減少したこと、そしてEB装置や防護無線、列車無線の整備が進んだことを理由に1985年のダイヤ改正をもって車掌(列車掛)の乗務も廃止になり、同時に列車掛という職制自体も廃止なりました。今日当たり前に見られる貨物列車の一人乗務はこの時から始まりましたが、廃止時には国鉄当局と労組の間で相当揉めたそうです。
ところで、車掌車や緩急車はなぜ連結されていたのでしょうか。
列車掛の主な業務として、走行する貨物列車の監視というのがありました。そもそも貨物列車は旅客列車とは異なり、非常に多くの貨車を連結していました。日本の鉄道貨物輸送は輸送単位が小さいため、二軸貨車が主力でした。大口の輸送やかさばる貨物はボギー貨車が使われましたが、基本単位としては二軸貨車が使われました。
この二軸貨車は車体長が短いため、積載量は少ないものの、混載する場合を除いては非常に使い勝手がよかったようです。そして、これら二軸貨車は操車場で行き先別に仕分けられ、長大な列車として仕立てられたのでした。
かつて、貨物列車の最後尾に必ず連結されていた車掌車や緩急車は、1984年のダイヤ改正で原則として廃止され、車掌(列車掛)の乗務自体も1985年の改正で廃止されてしまった。今日の貨物列車には機関士の一人乗務が当たり前だが、甲種車両輸送や新製車両受領時の竣工検査などでは添乗する関係者の控車として、車掌車が連結される場合がある。この場合も、車掌車に取り付けられている後部標識灯は使われず、ほかの貨物列車と同様に後部標識板が使われている。これは、運転取扱規程の中で貨物列車は灯火ではなく標識板とされているためで、たとえその設備があっても写真のように標識板が設置される。(©khws4v1, CC BY-SA 2.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)
そのため、1列車あたりの連結両数は20両から40両にも達する列車もあり、その分だけ連結器もありました。ブレーキを制御する空気管も同じで、ブレーキホースの連結部も数多くあったのです。これだけブレーキホースの連結部があれば、中には途中で外れてしまうこともあり、そうなればすぐさま非常ブレーキがかかってしまいます。貨物列車を運転する機関士だけでは時間も手間もかかるので、列車掛は最後尾から走る列車を監視することで万一のこうした事故に備えていたのです。
また、積み荷の荷崩れなどでバランスを崩し、最悪の場合は脱線する事態もあったようです。最後尾から前方を監視している列車掛は、そうした貨車の異常な兆候を素早く発見し、車掌弁と呼ばれるブレーキ弁装置を操作して列車をいち早く停止させ、重大な事故を防ぐ役割もありました。
加えて、列車に組成されたあとは、ブレーキの緩解試験も列車掛が担っていました。万一の事故の際には、機関士と協力して列車防護を行うこともしたり、中には軽微な破損の応急処置をしたりしていました。
このように、列車掛は貨物列車の安定した運行の一翼を担う重要な役割をしていましたが、その労働環境はかなり過酷だったようでした。そして、その列車掛が乗務した車両は車掌車や緩急車と呼ばれる貨車で、その種類は今日では考えられないほど多様なものでした。
《次回へ続く》
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