旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【15】

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山手線を追われた車両たちの行く末

 数多くの103系電車がつくられ、首都圏や京阪神の通勤路線を中心に通勤通学でたくさんのお客さんを乗せて走り続けましたが、国鉄の分割民営化が目前に迫った頃には、後継となる最新鋭の通勤型電車の登場によって、山手線や中央線快速、京阪神緩行線といった103系電車が最初の仕事場とした路線からは退いていきます。


前回までは

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 ところが、その同じ時期に国鉄は「通勤新線」という仮称で、新たな路線の建設を進めていました。
 高崎線赤羽線が発着する赤羽駅から、高崎線と少し西側に離れたところを通り、大宮駅へとつなぐ路線です。

 1978年から建設が始められた「通勤新線」は、1985年9月に「埼京線」として開業しました。この首都圏の新たな通勤路線となった埼京線は、池袋-赤羽間を結んでいた赤羽線と一体化して列車を運転することになったため、列車は池袋-赤羽-大宮間となりました。

 この新しい路線の埼京線は、開業当初から混雑することがわかっていたので、赤羽線で走っていた103系電車をそのまま埼京線の列車として走らせることはもちろん、205系電車の登場によって仕事場を追われた10両編成を組んでいた山手線の103系電車を、埼京線の電車たちの住処として用意された川越に異動させて、新たな仕事場としました。

 そのため、埼京線の電車はなんと山手線と同じうぐいす色を身に纏って、しかも新路線であるにもかかわらず最初から10両編成を組んで仕事を始めます。

 翌年の1986年には、埼京線山手貨物線に乗り入れ大崎まで走ることになりました。大崎-池袋間は山手線も走っているので、同じうぐいす色の電車が走っているとあって、なんとも紛らわしい感じもしました。

 ところでこの埼京線は先にも紹介したように、赤羽-大宮間に新たな線路を建設して誕生した路線です。一方、埼玉県南部の宅地化が進んで人口が急激に増加したために、大宮-高麗川間を結ぶ川越線の混雑も激しくなっていました。
 この川越線は1980年代に入っても非電化のままで、キハ35系気動車が中心になってこの押し寄せてくるお客さんたちを運んでいました。
 キハ35系気動車の中では珍しい通勤形ですが、電車のようにドアが4つというわけにはいきませんでした。これは、気動車のエンジンが今日のように強力なものでなかったことや、気動車が走る路線はどんなに混雑するといっても大都市ほどではなく、3つドアでも十分対応できるという想定でした。

 ところが、川越線はその想定を大きく上回る混雑になってしまったのです。

 このようにたくさんのお客さんを乗せた川越線の列車が到着すると、東京方面へと向かうお客さんたちは大宮駅で高崎線に乗り換えることになりまし。しかし高崎線の列車も大宮に着く頃にはほぼ満員、そこへ川越線からの乗り換えのお客さんを乗せるには、かなり無理がありました。

 そこで国鉄は非電化のまま残っていた川越線埼京線の建設と同時に全線電化させ、大宮-川越間は埼京線の列車がそのまま直通するようにしました。それまで気動車だったのが、一気に10両編成の103系電車による運転に変わったのです。

 一方、同じ川越線でも川越-高麗川間は川越より東に比べてそれほど混雑はしませんでした。とはいっても、川越線は全線電化したのでここを走る車両が必要です。
 ところが、この短い区間を走る車両がどうしても足りませんでした。
 足りないといっても、この頃すでに103系電車の製造は終わっています。最新鋭の205系電車の増備は続いていても、新車をいきなり近郊地域の、それも輸送量の少ないところに配置しようという発想は国鉄にはありません。

 しかもただでさえ台所事情は火の車どころの話ではないので、新車をつくるなんてことは極力避けたいのが本音でした。

 そこで、国鉄は妙案を思いつきます。

 宮城県あおば通から仙台を経由して石巻間を結んでいる仙石線で走っている、72系電車を改造して川越線で使おうというものです。

 

f:id:norichika583:20180731224428j:plain▲一見すると山手線から押し出されてきた車両に見えるが、旧性能車の72系電車の車体更新車から再改造されて103系電車となった。川越線の川越-高麗川間と八高線の八王子-高麗川間で運用された。行き先の「八王子」という表示とうぐいす色の車体はかつての横浜線を彷彿させる。(©DJAF Wikimediaより)

 

 72系電車といえば、先輩の101系電車とともに103系電車たちによって地方へと追った吊り掛け式駆動の旧性能電車です。
 多くが老朽化したために103系電車の転属によって御役御免となって廃車が進められている古い電車を、わざわざ東北から首都圏に連れ戻して走らせようとは、いくら財政が厳しいとはいえとんでもないアイディアです。
 しかし国鉄が目をつけた72系電車は、モーターや制御器などの電装品と台車などの足回りは旧来の72系電車でも、車体はなんと103系電車と同じものを載せた車両たちでした。

 この103系電車の車体を載せた72系電車に、103系電車の予備の部品をかき集めて電装品と足回りに交換すれば、車体だけの新型ではなく名実ともに103系電車にするという改造でした。
 これなら新車をつくるよりも遙かにコストを抑えることができ、さらに車体も改造から年数が経っていないのでそのまま廃車にしてスクラップにするよりも無駄も抑えることができます。

 こうして、川越線の川越-高麗川間には、旧性能電車の新性能化という、国鉄の長い歴史の中でも前例のない改造を受けて登場した103系電車が、うぐいす色を身に纏って3両ないし4両編成を組んで走ることになりました。
 新たな仕事場となった埼京線川越線103系電車は、民営化後の1990年まで走り続け、後を後輩の205系電車に託して去っていきました。

 一方、同じ川越線でも川越-高麗川間では、72系電車から改造された103系電車の活躍が続きます。
 もともとが旧性能電車だったために冷房装置を装備していませんでしたが、民営化後に冷房化の推進を進めていたJR東日本は、冷房化改造の工期も費用も少なくてすむAU721形冷房装置による改造を施しました。そのため、車体は山手線や京浜東北線などで走っていたATC対応車と同じものなのに、屋根の上には小ぶりな集約分散式のAU721形が2台載っているという、ほかでは見られないちょっと変わった姿になりました。

 そして、1996年には八王子と高崎を結ぶ八高線のうち、八王子-高麗川間が電化されました。その八高線の電化区間にも川越線103系電車が乗り入れることになって活躍の場を広げました。
 その後、大きな変化もなく時は流れていきましたが、寄る年波には勝てぬと申しましょう、長年走り続けてきたことで老朽化も進んだため、ついにその役割を205系電車や209系電車に譲って、2005年5月に川越・八高線から姿を消していきました。