旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【16】

東京湾岸を走り抜けたスカイブルーの電車

 埼京線と同じように、国鉄の終わり頃に開業したもう一つの通勤路線がありました。
 今日では東京駅から千葉県を結ぶバイパス路線としての役割を担う京葉線がそれです。

 京葉線はもともとは貨物線として計画・建設されました。東京貨物ターミナル駅から千葉県方面の貨物輸送を担う路線で、東海道貨物線と一体となった貨物輸送を目指したものでしたが、この頃の国鉄の貨物輸送が衰退していたため、計画通りとはいきませんでした。
 一方、東京と千葉県の間を結ぶ鉄道路線の混雑が非常に激しく、中央総武緩行線のバイパスとしてつくられた地下鉄東西線も逼迫したため、新たなバイパス路線を求められました。


前回までは

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 そこで、この貨物線を転用して旅客線化して開業したのが京葉線でした。

 京葉線は1986年に西船橋-千葉港間で開業します。その距離も非常に短く、そして肝心な東京都心へとは至っていない暫定での開業でした。暫定とはいっても、そこを走る車両は必要です。
 京葉線の車両たちの住処として新たにつくられた津田沼電車区新習志野派出(現在の京葉車両センター)には、ここを走る103系電車が用意されました。

 京葉線103系電車は、京浜東北線横浜線を走っていた車両たちでした。とはいっても、1986年当時は205系電車は山手線だけにつくられていたので、京浜東北線には役目を失ってしまった車両などはない状態でした。
 しかし、新たな路線にも車両は必要だということで、運用を工夫して文字通り捻り出して用意したことになります。

 こうして、京浜東北線横浜線から移ってきた103系電車は、スカイブルーを身に纏って千葉県の都心部の海岸沿いで仕事を始めました。
 この開業当初は営業区間も短く、なんといっても東京の都心部へ乗り入れていないので、あまり利用する人も少なかったので4両編成でした。首都圏を走る103系電車をはじめとした通勤形電車でこの短さは、鶴見線(この当時はまだ101系電車)や川越線の川越-高麗川間の車両に次いでの短さでした。

 国鉄の分割民営化直前に駆け込むようにして暫定開業した京葉線は、その後を引き継いだJR東日本の手によって延伸が進められました。
 1988年には新木場-南船橋間と市川塩浜西船橋間が開業します。これで、ようやく東京都内へと乗り入れることができましたが、最終目標の東京駅への乗り入れは今しばらく時間がかかりました。
 それでも、新木場駅では乗り換えはあるものの、営団地下鉄有楽町線都心部へと向かうことも可能になって需要も増えることから、それまでの4両編成から6両編成へと増やしました。
 さらに、この年には武蔵野線からの乗り入れも始められたので、京葉線にはスカイブルーの103系電車と、オレンジバーミリオン103系電車が走るようになり、京葉線沿線だけではなく、松戸方面から総武線に流れる利用者の分散も図られました。

 時代は平成に入り、沿線の宅地化は急速に進んでいきました。
 1990年、ついに念願だった東京駅への乗り入れが実現したことで、名実ともに混雑が著しい総武線地下鉄東西線、さらには京成電鉄線のバイパス路線として完成しました。
 東京駅乗り入れとともに、京葉線を走るスカイブルーの103系電車はそれまでの6両編成から一気に10両編成へと組み替えられ、山手線や京浜東北線、中央線並の輸送力を与えられました。

 こうして10両編成を組んで、東京の湾岸沿いを走ったスカイブルーの103系電車には、JRとしては最新式の保安装置であるATS-Pが取り付けられました。
 ATS-Pは今でこそ一般的な保安装置になりましたが、当時は京葉線が初めて使われる路線でした。そのため、新たな保安装置の機器を運転台に取り付けなければなりませんでしたが、ATC装置を装備した先頭車は使わなくなった機器を下ろして、代わりに新しい機器を取り付けるだけで済みました。
 ところが、初期型の低い運転台をもつ先頭車には、そのようなスペースがありません。
 スペースがないからといって、保安装置は省略できるものでもないので、新しい機器をなんと正面の前灯の左側、つまり運行番号の表示器を撤去して、そこに新しいATS-Pの機器を取り付けました。
 もちろん、こうした改造は京葉線103系電車だけではなく、武蔵野線から乗り入れてくるオレンジ色の103系電車にも施されます。
 この改造で、運行番号の表示窓は埋められてしまい、なんとものっぺりとした印象になってしまいました。

 民営化後に東京駅へ乗り入れるようになりましたが、それと同時に列車の増発用として、当時最新鋭の通勤形電車である205系電車がやってきました。しかも、沿線にある某夢の国に合わせて正面のデザインまで変えた、新会社の意欲作でした。
 この205系電車の登場は、103系電車の存在を脅かすようなものではありませんでした。ステンレス車体の後輩と一緒に、東京の湾岸を走り続ける仕事は2000年まで続きます。

 2000年になり、長年高速で走り続けてきたことがたたったのか、103系電車も故障が頻発するようになります。これ以上は長く走り続けていくことが難しくなってきたのでしょう。
 そこで、中央総武緩行線を仕事場にしていたカナリアイエローの201系電車が、スカイブルーに塗り替えられて京葉線にやってきます。201系電車がやってくるたびに、状態のよくない103系電車はその任を終えて引退していきました。

 ベテラン103系電車の置き換えは201系電車だけではなく、同じ中央総武緩行線からやってきた205系電車によってもおこなわれました。
 この追加の205系電車が三鷹から習志野に異動してきたことで、103系電車は京葉線から退くことが決定的となっていきました。
 そして、国鉄末期から海沿いを、時には強風との闘いにもなった京葉線から、2005年8月にすべて退いていき、京葉線での103系電車の歴史は幕を閉じます。