《前回のつづきから》
1993年当時、東急にとって8000系は主力となる車両でした。1989年にVVVFインバータ制御という新機軸を導入して新製がはじめられた9000系がありましたが、こちらはまだ増備の途中でした。加えて9000系をもって8000系すべてを代替するというものではなく、9000系はあくまでも輸送力の増加による増備であり、あくまでも主力は8000系でした。
あくまでもこれは推測ですが、8000系の譲渡を打診してきた伊豆急がいくら東急の子会社といっても、そのまま二つ返事で「譲渡する」とはいえませんでした。また、バブル経済の崩壊は経営基盤が盤石とまでいわれた東急にとっても、大きな痛手になっていました。
わざわざ8000系を譲渡して、高価な9000系を増備しては、自身の経営にも影響を及ぼしかねません。また、8000系はまだまだ車歴が浅いことや、18m級中型車が運用されていた大井町線に8000系を送り込み、そこから捻出された中型車を池上・目蒲の両線に送り込んで、吊り掛け車である3000系を淘汰したばかりでした。
当初の目論見とはまったく異なり、8000系の譲受が叶わなかった伊豆急は、100系の置換えに窮することになります。そうする中で時は流れ続け、100系の老朽化はいよいよ深刻なものになっていきました。
そこに手を差し伸べたのは、乗り入れ相手であるJR東日本でした。
JR東日本は100系の置換えに充てる車両として、国鉄から継承して運用を続けていた113系と115系を提示したのでした。
113系は国鉄が製造した近郊型電車で、伊豆急行線と相互直通運転をする伊東線でも運用されている車両で、伊豆急にとっても馴染みのあるものでした。115系は113系を勾配線区向けに抑速ブレーキなどを追加したもので、基本的には同じといっていい車両です。
老朽化が進む100系電車の置き換えとして、当初、伊豆急行は親会社である東急で運用されていた8000系の譲渡を望んだ。しかし、東急は8000系の廃車計画はなかったことから計画は頓挫してしまう。その代案として、乗り入れ先であるJR東日本から113系の譲渡が打診され、これを導入することで置き換えが実現した。200系として譲渡された113・115系の中には写真のように初期に製造された車両が中心であったが、本命である8000系の譲渡までの「中継ぎ」の意味もあったためか、2008年までに運用を終えて廃系列となった。(クモハ283(exクモハ115-16)ほか4連F5編成 熱海駅 2004年8月7日 筆者撮影)
113系と115系であれば、伊豆急行線での運用に問題はありません。100系のように常に海岸沿いを走っていたのではないため、製造からの年数は経っていても、塩害などによる老朽化はありませんでした。
加えて抵抗制御式なので、伊豆急の検修陣にとってもある程度の教育を受けることで対応ができるともに、乗務員も乗り入れてくる車両なので扱いに慣れています。言い換えれば導入にかかるコストを最小限で済ませることが可能なのです。
また、JR東日本にとっても、自社の車両を譲渡して伊豆急行線で運用されるメリットが多く存在しました。
老朽化・陳腐化によりE231系に代替するにしても、113系や115系をそのまま廃車解体して鉄屑にすれば、処分にかかるコストが掛かります。しかし譲渡となれば、売却することで代金を得られます。つまり、コストとして支払うのではなく、代金として収入が得られるのです。
また、伊東線の乗務員にとっても、扱いなれた113系や115系であれば、わざわざ慣熟訓練をする必要がありません。伊豆急が8000系を導入すれば、運転台の機器が国鉄形とはまったく異なるワンハンドルマスコンとなり、運転士はこれに対応する教育を受けなければなりません。
いくら分割民営化によって新会社になったとしても、90年代から2000年代にかけてはまだまだ国鉄の気質などが残っており、労使関係には微妙な難しさが残っていました。乗り入れ相手の事情とはいえ、運転操作が異なり、しかも制御方式も扱ったことのない車両の入線となると、現場の運転士からの反発が予想されました。
伊豆急行200系電車の車内。といっても、ほとんど改造されておらず、このように車内もJR時代と変わらないセミクロスシートだった。さすがに座席のモケットなどはJR時代に交換されたもので、国鉄時代の紺色ではなかった。また、伊豆急行への譲渡に際して車体の塗装変更のほかに、背もたれのカバーの設置などがおこなわれた。(クモハ283 2005年3月6日 筆者撮影)
加えて、JR東日本としては、伊東線の輸送力の適正化を考えていました。
国鉄時代からの流れで伊東線と伊豆急行線との相互乗り入れをしていましたが、東海道本線の列車をそのまま直通する運用形態をとっていました。伊東線のためにわざわざ短編成の車両を用意するのではなく、グリーン車を連結した15両ないし11両編成をそのまま乗り入れさせていたのです。
しかしバブル経済崩壊など、社会と経済の情勢は急激に変わってしまいました。伊東線もまた、輸送量の減少に悩まされることになりますが、そうした路線に11両編成や15両編成という長大な編成を組んだ列車を運行するのはあまりにも効率が悪いのでした。
とはいえ、僅か16.7kmという短い路線のために、4両編成の車両を用意するのは効率的とはいえません。できることなら、乗り入れ相手である伊豆急の車両だけで列車を運行すれば、車両使用料を支払ってでもコストは軽減できると考えたと推測できます。
そうした背景もあって、JR東日本は伊豆急に113系と115系の譲渡を申し入れたのでした。
JR東日本から最初に譲渡されたのは113系1000番台で、前面のタイフォンスリットは先負標識灯の横ではなく、貫通扉下部の両側に設置されていることや、乗務員室扉後部にはATC機器室があることから横須賀・総武快速線で運用された地下線仕様であることが分かる。塗装は100系のオーシャングリーンとハワイアンブルーの2色塗装ではなく、写真のようにオリジナルの塗装となった。できれば、在籍中に100系と同じ塗装をまとった姿を見てみたいと考えたのは筆者だけだろうか。(クハ251(exクハ1111-1074) 伊豆急下田駅 2005年3月6日 筆者撮影)
こうして2000年に導入されたのが200系でした。200系は2001年、2002年にも増備されて、ようやく100系の置き換えを完了しました。それと同時に、JR東日本が目論んだ通り、2002年のダイヤ改正をもって特急「踊り子」で運転される185系などを除いて、普通列車の伊豆急行線への乗り入れは廃止になり、伊東線には伊豆急が保有する車両で運転されることになります。すなわち、かつて見られた東京発、伊豆急下田行や伊東行きの普通列車はほとんどなくなったのでした。
こうした経緯で導入された200系も、もともとが国鉄が製造した車両なので、そう長く使い続けることはできませんでした。このことは最初から想定されていたことで、いずれは新製ないし譲渡によって、代替となる車両を導入しなければならないことは予想されていたといっていいでしょう。
まさに「中継ぎ」としての役割は目に見えて分かるというもので、導入からわずか8年後には再び代替が行われることになるのでした。
《次回へつづく》
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