旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 痛勤ラッシュを支え続けて【19】

後輩たちとともに走った中央・総武緩行線中央・総武線各駅停車)【後編】

 こうして、201系電車と205系電車で、残った101系電車を淘汰することにしたのです。
 101系電車が去った後は、黄色に塗られた103系電車と201系電車と黄色い帯を締めたステンレス車205系電車が、中央・総武緩行線の主役として、混雑の激しい東京西部から京葉間の通勤輸送で活躍します。

 民営化後の1990年代は、これという大きな動きもなく、この3つの形式の車両たちが都心を貫くように走り続けました。


前回までは 

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 しかし、製造から30年以上が経たったいることに加えて、もともとが中央線快速という103系電車としては不向きな路線で仕事を始めたことや、連日60km以上の距離を往復する仕事の疲れが祟り、老朽化が進んでしまいました。

 そして、1990年代終わり頃から2000年にかけては車両故障を頻発するようになってしまいました。あまりも車両故障が多く起きて、運転ダイヤが乱れてばかりになると、お客さんからのクレームも多くなってしまうばかりか、乗務員や車両の運用も困難になってしまいます。

 さすがにこれ以上、103系電車を走らせることは難しいと考えたJR東日本は、急遽209系500番台をつくって習志野に配置し、状態のよくない103系電車を置き換えることにしました。

JR East 209-500 C501 Asakusabashi 2015-06-28中央・総武緩行線中央・総武線各駅停車)で走る209系500番台E217系由来の幅広の車体で乗車定員を増やし、ラッシュ時の混雑を緩和することに貢献した。一方、制御機器などの電装品は209系電車の基本番台のもので、次期一般形電車が完成するまでの「つなぎ」として、手持ちの車両の長所を組み合わせてつくられたものだった。(© Cheng-en Cheng  [CC BY-SA 2.0 ], ウィキメディアより

 

 この「急遽」というのが実はミソ。

 もともと、中央・総武緩行線は新たに開発する一般形電車で置き換える予定でした。ところが、中央・総武緩行線103系電車の老朽化は、その新型電車の登場を待っていて間に合わないほど深刻なものになっていました。
 そこで、横須賀・総武線快速を走るE217系電車の車体と、京浜東北線を走る209系電車の電装品を組み合わせてつくったのが209系500番台でした。

 もはやこれ以上老体に鞭を打つことが難しくなった103系電車は、次世代の新型車両たちが三鷹へやってくると、ようやくその任を終えて退いていき始めました。

 中央・総武緩行線の新しい顔の本命であるE231系電車の量産が始まると、JR東日本はその財力と、自社内で車両を生産できるというメリットを最大に発揮して、2000年から三鷹へ送り込むと僅か1年で中央・総武緩行線で活躍していた「国鉄形」電車をすべて置き換えてしまいました。
 たった1年ですべての車両を置き換えるというのは、それまでの常識を破った方法で、これ以後、JR東日本における車両の置換えのパターンとして確立していきます。

 こうして、2001年に黄色の103系電車はすべての任を終え、住み慣れた三鷹を離れて退いていきました。

 同時に置換えの対象になった201系電車は住まいを三鷹から豊田に移し、オレンジ色に塗り替えて青梅線五日市線を新たな職場にして、ここに残っていた103系電車を置き換えます。

 また、比較的新しい205系電車は、10両編成のうち中間に連結されていた電動車2両を抜き取って電装品を新しいものに替えた上で、京葉車両センターへと住処を移し、武蔵野線を新たな職場としてやはりここの103系電車を置き換えました。
 加えて、抜き取られた中間の電動車2両は、大船に隣接する工場(鎌倉総合車両センター、現在は鎌倉車両センター)に送られ、運転台を取り付けるなど先頭車への改造を受け、南武線の住処である中原へとやってきて、浜川崎支線を走っていた古参も古参の101系電車を置き換えました。

 同じ住処で同じ仕事をし仲間でもあった後輩の車両たちは、新たな職場に移って兄弟たちを引退させていったことは、時代の流れとはいえ皮肉な話にも聞こえます。