西のスカイブルー・京阪神緩行線【前編】
前回までは
阪和線に次いで関西圏に103系電車が送り込まれたのは、京都~大阪~神戸~西明石を走る普通列車・京阪神緩行線でした。あまり聞き慣れない路線名かもしれません。
一般には「各駅停車」とか「普通列車」と呼んで案内されていましたし、民営化後にJR西日本が「アーバンネットワーク」と称して関西圏を中心にした路線網に本来の路線名とは別に、それぞれ愛称を付けたので余計に聞き慣れないものとなってしまったと思います。
1969年にスカイブルーに塗られた新車の103系電車は、京阪神緩行線の輸送力増強と改善のために送り込まれてきました。
というのも、この路線は常に並行する私鉄との熾烈な争いに晒されていました。京都~大阪間は阪急京都線や京阪本線と競合し、大阪~神戸間は阪急神戸線や阪神本線・山陽電鉄と競り合っているという状態でした。
阪急や京阪、阪神といった私鉄各社は、とにかく我が社の我が路線に乗客を誘おうと必死で、とにかく速く走ることができる車両を開発したり、特別料金不要でありながらクロスシートを備えた接客設備でサービスを図ったりしていました。
一方、国鉄はというと私鉄の車両のように速く走ることができる車両も少なく、京阪神緩行線に至ってはどんなに新しくても通勤形の72系電車、ともすると戦前製の国鉄はいま3ドアロングシートの40系電車と、比べものにならないくらい古くて簡素な設備をもった車両しか持ち合わせがなく、私鉄との熾烈な競争に太刀打ちできるとは言い難い状況でした。
これに加えて、1960年代に入ると沿線の状況も大きく変化してきました。宅地開発が進み、朝夕の通勤・通学の時間帯の混雑が激しくなってきたのです。1950年代終わりの頃、京阪神緩行線の混雑率は最大で300%を超えるという状態で、それまでのような列車の運転形態、そして旧性能車のままというわけにはいかなくなってきました。
そこで先ずは快速電車を、旧性能電車から113系電車へと置き換えます。113系電車は中距離列車用の新性能電車で、セミクロスシートを備えて高速運転に適した性能をもっていました。
80系電車も残っていたとはいえ、こちらは戦後につくられた電車で、しかも一等車(現在のグリーン車)も連結していたので、一応の体裁は整えていたので、戦前製の車両が残る緩行線とは一線を画するものがあったといえるでしょう。並行する私鉄と競うには十分な設備と性能を快速電車にはもたせることができたのです。
▲京阪神緩行線(現在のJR京都線、JR神戸線)を走る103系電車。(作者 halfrain (Go East) [CC BY-SA 2.0 ], ウィキメディア・コモンズ経由で)
こうなると、緩行線を走る電車はますます古く、そして陳腐化したものになってしまいました。
しかも、快速電車に113系が入っているので、快速電車から逃げ切るようにして接続駅へ滑り込むという運用を常にする緩行線で、加速・減速ともに見劣りする旧性能電車では、遠からずダイヤ上のネックになることは十分考えられるものでした。
国鉄もそんな状況にいつまでも甘んじているわけにもいきませんでした。並行する私鉄各社にお客さんを奪われ続けて、ただ指をくわえて見ているだけでは、収入が減るだけでいいことは一つもありません。
それに、沿線の急速な開発による人口の増加は、多くのお客さんを獲得するチャンスでもありました。
そこで、国鉄本社は京阪神緩行線を管轄する大阪鉄道管理局(以下、大鉄局)に、「新しい通勤形電車は必要か?」と打診をします。もちろん、関西圏の現状に合った性能と設備をもった車両があれば、大鉄局としても私鉄との競争に打ち勝つチャンスにもなります。
実際、新型通勤電車について、大鉄局は具体的な性能まで考案していたようでした。しかし、新型通勤電車をつくるくらいなら1列車に連結する車両数を増やせば済む話だと、国鉄本社は大鉄局の構想を却下してしまいます。
京阪神緩行線の実態に合わせた性能をもつ新型通勤電車の構想はなくなってしまいましたが、それでも輸送力の増強は喫緊の課題でした。そこで、1970年に開かれた大阪万博を見据えた輸送力増強用の車両の要求で、大鉄局は103系電車を要求しました。